現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

青春ラブコメの岐路と2010年代のライトノベル ― 渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(その一)

 皆さんこんにちは。今回は、2010年代のライトノベルを象徴するビッグタイトルについて語ろうと思います。そう、渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(本編14巻+外伝3巻ほか、ガガガ文庫、2011年3月~19年11月)です。本作はすでに累計発行部数で1000万部を超え、メディアミックスではアニメ1期・2期、コミック版3タイトル、ゲーム版2タイトルなどを展開していて、とても高い人気を誇ります。

 『俺ガイル』は単なる人気作に留まらず、多くのライトノベルに強い影響を与えました。本作が昨年11月発売の第14巻をもって本編が完結し、今年2020年4月からアニメ第3期が原作最終巻までを放送するという今こそ、いよいよ『俺ガイル』について総括的に論じることができる時期が来たのではないかと思います。

 

 第1回目では、『俺ガイル』第1部に当たる第1~6巻までの構成とストーリー展開を踏まえながら、2010年代における「青春ラブコメ」の岐路について論じようと思います。ぜひお読みください。

―目次―

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△ やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。| 小学館 ガガガ文庫

1.ラブコメの流行と『俺ガイル』第1巻の刊行

 最初に刊行された『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2011年3月発売)=第1巻は、本作の出発点であると同時に、とても特殊な位置をしめています。第1巻の内容は一本のストーリーというより、個別のエピソードをつなげた連作掌編に近い形をとっています(注1)。もちろん、前半でテーマを示して終盤に盛り上げていくという構成も取られていて、全体としてテーマと構成で一つの物語を成り立たせています。

(注1)第1巻の構成は以下の通り。①主人公・比企谷八幡とヒロイン・雪ノ下雪乃との出会い、②雪乃との交流、③もう一人のヒロイン・由比ヶ浜結衣との出会い、④スクールカーストの人間模様、⑤依頼者その1(材木座)、⑥⑦依頼者その2(戸塚)、⑧エピローグ。人間関係を除くと、全体として一貫したストーリー展開にはなっていません。

 

 なぜ、『俺ガイル』第1巻はそのような形をとっているのでしょうか? それは、もともと本作が1巻で完結する予定だったからです。このことは作者がインタビューで語っていますし[リビング千葉2015]、第1巻にはシリーズ番号が付けられていません。

 作者の渡航は、『あやかしがたり』(ガガガ文庫、2009~10年)という伝記風の時代劇アクションでデビューを飾りました。この作品は、ガガガ文庫らしいエッジの効いたもので、高く評価する人も少なくありません。歴史小説・時代小説の大家である司馬遼太郎藤沢周平の影響を受けたというだけはあります。しかし、結果的に前作はあまり売れず、新しい企画として作者が出したのが、「ラブコメ」だったのですこのラノ2014:57・59ページ]

 

 2000年代後半から2010年代前半にかけて、ラブコメは勢いのあるジャンルでした。特にその中心にあったのは、井上堅二バカとテストと召喚獣』(全18巻、ファミ通文庫、2007~15年)や葵せきな生徒会の一存』シリーズ(全21巻、ファンタジア文庫、2008~13年)といった学園を舞台にしたハイテンション・ギャグや、伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(全12巻ほか、電撃文庫、2008~13年)といったホームコメディでした。これらのラブコメ作品は、「萌え」とドタバタ展開(時に異能バトル)を軸としたものでした。それは、少し前の2000年代のブームだった美少女ゲームの影響や、「日常系」との差別化という側面があったように思います(「白鳥士郎の苦悩と躍進と2010年代のライトノベル」も参照)。

 ブコメの流行しているなかで、『俺ガイル』はどのような戦略をとったのでしょうか。この点について作者は、いわゆる「残念系」の流れをつくった平坂読僕は友達が少ない』(全14巻、MF文庫J、2009~14年)と、中二病スクールカーストを題材にした、田中ロミオ『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』(ガガガ文庫、2008年)を意識して書いたと明言していますこのラノ2014:59ページ]

 さらに付け加えておくと、『俺ガイル』が谷川流涼宮ハルヒ』シリーズ(既刊11巻、スニーカー文庫、2003~11年)の影響下にあることは明らかです。特殊な部活を舞台に設定しているところや、主人公による一人称目線での饒舌な語りでツッコミを交えながらストーリーを進めているところなど、2000年代のライトノベルのトレンドを引き継いでいます。

 つまり本作は、2000年代の「学園もの」の系譜を受け継ぎながら、残念系、中二病スクールカーストをキャラクターと物語設定に織り込むことで、既存のラブコメ作品との差別化を図ったというわけです。これが『俺ガイル』第1巻が発売された当時のポジションだったと言えると思います。

 

2.残念系ラブコメから青春群像劇へ

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は第1巻が成功し、続編が刊行されることになりました。もともと1巻で完結する物語でしたが、「続編が出せると聞いてあわてて6巻くらいまでのストーリーをおおざっぱに考えました」と後に作者は語っています[リビング千葉2015]。作者の言うとおり、『俺ガイル』は第6巻までで一区切りの流れがあることは確かです。ちょうどアニメ第1期(2013年)もこの区切りが採用されています(注2)

(注2)第1巻=アニメ1~3話、第2巻=4~5話、第3巻=6話、第4巻=7~8話、第5巻=9話、第6巻=10~12話。これによって、物語の軸である八幡と雪乃・結衣をめぐるストーリー展開が明確になっています。しかし他方で、サブエピソードがかなり省略されたことによる矛盾も抱え込んでしまいました。

 

 さて、『俺ガイル』第2巻(2011年7月発売)は、第1巻のキャラクターと設定を継承しつつ、一本の物語としてまとめられています。第2巻では「ひねくれぼっち」な主人公として、「斜め下」の発想で活躍するという比企谷八幡アンチヒーロー的なキャラクターが確定するとともに、スクールカーストの「内」と「外」を象徴する人物(葉山隼人と川崎沙希)が登場しました。続く第3巻(2011年11月発売)では、1巻で登場した主要キャラクター(雪乃、結衣、小町、戸塚、材木座)が掘り下げられています。さらに第4巻(2012年3月発売)では、スクールカーストの「内」と「外」が交錯する展開となり、八幡と対になる葉山のポジションが明確になるとともに、雪乃と対になる鶴見留美が登場しました。

 こうしたストーリー展開から言えることは、シリーズ化することとなった『俺ガイル』は、「残念系」によってキャラクターを確立しながら、キャラクター小説的なスタイルから青春群像劇へと徐々にシフトしていったということです。ちょうど、ラブコメの流行にもかげりが差してきた時期でもあります。今から振り返ると、まさに「青春ラブコメ」は岐路に立たされていたのです。本作の場合、ラブコメとして主人公をめぐる恋愛が進んでいくことよりも、「青春もの」として登場人物をめぐる悩みや葛藤の方がクローズアップされてゆきます。

 

 例えば、本作を象徴するキーワードである「本物」や「自己犠牲」という言葉が最初に登場するのは第3巻のエピローグに当たる部分なのですが、これはヒロインの結衣が主人公の八幡に対する特別な感情を否定するモノローグとなっています。

 仮に。もし仮に。その思いが特別なものであったとしても、だ。

 偶発的な事故で芽生えただけの感情を、自己犠牲を払ったおかげで向けられた同情を、他の誰かが救ったとしても生まれていた可能性のある恋情を、本物だと認めることはできない。

 俺が彼女を彼女と認識せずに救ったのならば、彼女もまた、俺を俺と認識せずに救われたのだから。なら、その情動も優しさも俺に向けられているのではない。救ってくれた誰かへのものだ。

 だから勘違いしてはいけない。

 勝手に期待して勝手に失望するのはもうやめた。

 最初から期待しないし、途中からも期待しない。最後まで期待しない。渡航:3巻239ページ]

さらに付け加えると、八幡と結衣における「事故の被害者」という特別なつながりに対して、そのような特別なつながりを持たない雪乃が「寂しげな笑顔を浮かべる」 シーンが直後に入ります渡航:3巻240ページ](注3)。このように、『俺ガイル』はラブコメとして始まりながら、第3巻のエピローグの時点でラブコメとは逆方向へと進んでいったのです(注4)

(注3)この「寂しげな笑顔」とは、本作の第2部で彼女が繰り返し浮かべる表情に他なりません。

(注4)もちろんこのことは、『俺ガイル』が「ラブコメ」要素を完全に失ったことを意味するわけではありません。ただし、第3巻以降、「ラブコメ」は巻末の「ぼーなすとらっく!」や7.5巻のような番外編に場を移してゆきます。また、第8巻から本格的に登場することになる第3のヒロイン・一色いろはが、雪乃・結衣に代わるラブコメ要員の「優秀な中継ぎ投手」としてとして登場したことは、作者自身が語っているところです[このラノ2015:39ページ]。

 

3.青春群像劇のなかの『俺ガイル』

 続いて、青春群像劇としての『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の性格について考えてみたいと思います。そもそも、現代日本ライトノベルでは、青春群像劇では一つのジャンルとして脈々と受け継がれてきました(もう少し広く「青春もの」と言ってもいいかもしれません)。レーベルとしては、電撃文庫ファミ通文庫が強い印象です(注5)。これらの作品の書き手は、後に文芸系のレーベルに進出したり、女性作家が目立つところが注目できるでしょう。

(注5)橋本紡半分の月がのぼる空』(全8巻、電撃文庫、2003~06年)、竹宮ゆゆことらドラ!』(全13巻、電撃文庫、2006~10年)、野村美月『”文学少女”』シリーズ(全16巻、ファミ通文庫、2006~11年)、庵田定夏ココロコネクト』(全11巻、ファミ通文庫、2010~13年)、鴨志田一さくら荘のペットな彼女』(全13巻、電撃文庫、2010~14年)など。

 なお、より広い意味での「群像劇」にはさまざまなパターンがあります。例えば、①バトル+青春群像劇:神野オキナ疾走れ、撃て!』(全12巻、MF文庫J、2008~16年)、柳実冬貴対魔導学園35試験小隊』(全15巻、ファンタジア文庫、2012~16年)など。②多くの登場人物が掘り下げる:成田良悟バッカーノ!』(既刊23巻、電撃文庫、2003年~)、鎌池和馬とある魔術の禁書目録』(既刊49巻、電撃文庫、2004年~)、佐島勤魔法科高校の劣等生』(既刊31巻、電撃文庫、2011年~)、大森藤ノダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(既刊29巻、GA文庫、2013年~)など。ですが、この記事ではより限定された意味で「青春群像劇」という言葉を用いました。

 

 これに対し『俺ガイル』は、橋本紡のような「文芸っぽさ」とは明らかに距離があります。文芸系の作品は三人称目線が多く、登場人物の言動や情景を軸に語る傾向があるのに対して、本作では主人公である八幡の自己語りがとても強くなっています。登場人物の心情を掘り下げながらも、キャラクター性に根ざした主人公の主観を強く押し出している点が特徴的です。作者の渡航も次のようなことに言っています。 「『俺ガイル』で書こうとしているものは、舞台装置としては本来群像劇に近いと思うんです。ただそこからさらに一歩、主観に根ざしたものを書きたかった。だから八幡の一人称視点から俯瞰して書くのが、この作品の一つの特徴ですねこのラノ2015:40ページ]

 ただし、主人公である八幡の主観といっても、それは『涼宮ハルヒ』のキョンのような傍観者的な語りとも、新海誠秒速5センチメートル』(2007年)の遠野貴樹のような過剰に詩的でセンチメンタルな語りとも異なります。むしろ作品全体の雰囲気は、少女マンガからの影響の方が強いように思います(注6)。あえて図式的に整理すれば、新海誠的な男性目線の〈自己陶酔的でセンチメンタルな〉心情ではなく、それとは異なる〈自己言及的でナイーブな〉心情と人間模様の変化をストーリー展開の軸に置いていると言えるでしょう。

(注6)作者の渡航もインタビューのなかで、学生時代に読んで『俺ガイル』に影響を与えた作品として、きづきあきらヨイコノミライ』(ぺんぎん書房、新装版・小学館)、冬目景イエスタデイをうたって』(集英社)、羽海野チカハチミツとクローバー』(集英社)を挙げています[このラノ2014:59ページ]。

 

 そして恐らくですが、『俺ガイル』の渡航だけでなく、竹宮ゆゆこ庵田定夏といった他の「青春もの」の書き手たちも、少女マンガ(または女性向けマンガ)からの影響を受けていると思われます。そう考えると、ライトノベルにおける青春群像劇あるいは「青春もの」は、少女マンガからの影響を受けたジャンルだと言えそうです。日本のコンテンツ文化の中心軸である少年マンガ、SF・ロボット、美少女ゲームとは異なるもう一つの中心軸が、このジャンルには流れ込んでいるわけです。

 また『俺ガイル』に関しては、2000年代後半から続いてきたラブコメの流行が収束を迎えようとしたとき、少女マンガの要素を新たな形で取り入れることで、その後の高い人気を獲得するステップとなったのです。こうしたことの意義は、もっと評価されていいと思います(注7)

(注7)さらにさかのぼれば、オタク文化における「萌え」もまた、1980~90年代における少女マンガの絵柄を美少女ゲームや男性向けマンガが取り入れてきたことを前提として成立し、2000年代に少女マンガから離れた独自の「萌え」文化が広がったという経緯があったように思います。このように、少女マンガは色々な時代にさまざまな形で影響を与えてきたのです。

 

4.八幡・雪乃・結衣、3人の関係の行方

 さて、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は第4巻以降、主人公が直面する事件の解決がだんだんと難しくなってゆくことになります。この巻でも、鶴見留美の問題を解決するために彼女の人間関係を破壊するという手段に訴えますが、このやり方が後味の悪いものであったことは彼ら自身が自覚しています。しかも、4巻の最終盤で、雪乃が「事故の加害者」であったこと、さらに彼女の抱える問題の背景には実家や姉が絡んでいることが明らかになります。

 第5巻(2012年7月発売)の後半部分では、物語の焦点が八幡・雪乃・結衣の3人の関係の行方にいよいよ絞られてゆきます。そこでは、雪乃が抱える問題に対して八幡や結衣がどのように向き合うのかが問われることになります。以下は、花火大会の帰りの八幡と結衣とのやり取りです。

「知らないままで、いいのかな……」

 由比ヶ浜は得心いかない様子で、俯き足もとに目をやった。

 歩みが止まってしまった由比ヶ浜に合わせるように、俺も立ち止まる。

「知らないことが悪いことだとは思わないけどな。知っていることが増えると面倒ごとも一気に増えるし」

 知ることはリスクを背負う行為に外ならない。知らなければ幸せなことはたくさんある。人の本当の気持ちなどその最たるものだろう。

 誰しも多かれ少なかれ自分を騙し欺いて生きている。

 だから真実は常に人を傷つける。誰かの平穏を壊す存在でしかない。

 数秒の沈黙。

 それだけの時間考えて、由比ヶ浜は彼女なりの答えを出す。

「でもあたしはもっと知りたい、な……。お互いよく知って、もっと仲良くなりたい。困ったら力になりたい」

 由比ヶ浜は先導するように歩き出した。

 出遅れた俺はそのまま一歩後ろを歩く。

「ヒッキー。もし、ゆきのんが困ってたら、助けてあげてね」

「……」

 そのお願いに応える言葉が見つからなかった。渡航:5巻206-207ページ]

このように、雪乃が抱える事情に踏み込むべきではないと考える八幡ですが、彼自身の雪乃に対する心情はもっと複雑です。

 俺は何も見てこなかったのではないだろうか。

 彼女の行動やそこに至る心理がなんとなく理解できるときは確かにある。だが、それは気持ちを理解できることとイコールではない。

 ただ環境や立ち位置が類似しているから、そこから類推することができて、それがたあたま近似値となっているだけのことにすぎないのだ。

 人はいつだって見たいと思ったものしか見ない。

 俺は彼女に何か近しいものを見いだしていたと思う。

 孤高を貫き、己が正義を貫き、理解されないことを嘆かず、理解することを諦める。その完璧な超人性は俺が会得せんとし、彼女が確かに持っていたものだ。

 俺は……もっと知りたいとは思わない。

 俺が見てきた雪ノ下雪乃

 常に美しく、誠実で、嘘を吐かず、ともすれば余計なことさえも歯切れよく言ってのける。寄る辺がなくともその足で立ち続ける。

 その姿に。凍てつく青い炎のように美しく、悲しいまでに儚い立ち姿に。

 そんな雪ノ下雪乃に。

 きっと俺は、憧れていたのだ。渡航:5巻217-218ページ]

雪乃の高潔さに憧れ、さながら神聖視するかのような八幡の態度は、さらに自身への自己嫌悪へとつながります渡航:5巻224ページ]。(なお、この一連の流れは、『俺ガイル』の第2部にあたる、第7巻以降の展開の伏線になっていることも見逃せません。)

 

 『俺ガイル』第1部のクライマックスとなる第6巻(2012年11月)では、こうした3人のもつれた関係をどのように修復し、それぞれの問題を乗り越えてゆくかに焦点が当てられます。ここで作者は、ひとまずのハッピーエンドを与えました。八幡が雪乃のために「自己犠牲」の行動にでて、雪乃も姉に対して積極的に態度をとることができました。エピローグでは、1巻の友達にならないかのシーンが再現された後渡航:1巻70ページ;6巻350ページ]、「事故のこと」をお互い水に流す会話がなされ、八幡のモノローグが入ります。

 誤解は解けない。人生はいつだって取り返しがつかない、間違った答えはきっとそのまま。

 だから、飽きもせずに問い直すんだ。

 新しい、正しい答えを知るためには。

 俺も、雪ノ下も、お互いのことを知らなかった。

 何を持って、知ると呼ぶべきか。理解していなかった。

 ただお互いの在り方だけを見ていればそれでわかったのにな。大切なものは目には見えないんだ。つい、目を逸らしてしまうから。

 俺は。

 俺たちは。

 この半年近い期間をかけて、ようやくお互いの存在を知ったのだ。

 名前と断片的な印象だけが占めていた人物像を、まるでモザイク画のように一つ一つ欠片を埋めて、虚像を作り上げることができた。

 きっと実像ではないのだろうけど。

 まぁ、今はそれでもいい。渡航:6巻352-354ページ]

ここで八幡は、雪乃との出会いで感じた「憧れ」から、「ようやくお互いの存在を知った」ところまで辿り着いたことを確認します。そして、「お互いを知る」とは、5巻の花火大会の結衣の言葉でもあります。ここで、ようやく三人はスタートラインに立つことができたのです。

 ここから「青春ラブコメ」は第2幕へと突入します。

 

おわりに

 今回は、渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1~6巻までの構成とストーリー展開を踏まえて、2010年代のライトノベルにおける本作の位置と、物語の基本軸を考えてゆきました

 改めて論じたことをまとめておきます。本作は当時流行していたラブコメの変わり種(いわゆる「残念系」)として第1巻が発売されながら、その後だんだんとラブコメから離脱してゆきました。2000年代後半から続くラブコメの流行にかげりが見えるなかで、少女マンガの要素を取り入れた青春群像劇へとシフトしていったのです。言うなれば、2010年代の初頭、「青春ラブコメ」が岐路に立たされたとき、青春「ラブコメ」から「青春」ラブコメへとシフトすることで成功したのが『俺ガイル』だったのです。

 とりわけ、『俺ガイル』の第5~6巻のストーリー展開は、主人公である八幡の目線を通して、登場人物をめぐる心情と人間模様の変化をていねいに紡いでゆくものとなりました。それは、本作の第2部に当たる第7巻以降の物語の基本軸となります。ようやくスタートラインに立った主人公たちは、いっそう解決の難しい事件に主人公たちがどのように向き合うのでしょうか。この問題については、2回目を現在準備中ですので、しばらくお待ちください

 

【参考文献】

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(ガガガ文庫、2011年3月発売)

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2』(ガガガ文庫、2011年7月発売)

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。3』(ガガガ文庫、2011年11月発売)

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4』(ガガガ文庫、2012年3月発売)

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。5』(ガガガ文庫、2012年7月発売)

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2』(ガガガ文庫、2012年11月発売)

・「“俺ガイル”原作者 渡 航さんにインタビュー!」(リビング千葉Web、2015年2月19日、2020年4月5日閲覧)

・「渡航インタビュー」(『このライトノベルがすごい!2014』、宝島社、2013年12月)

・「渡航インタビュー」(『このライトノベルがすごい!2015』、宝島社、2014年12月)

・「「ラノベの特異点」として『僕は友達が少ない』を紹介するコラムと、『はがない』から『俺ガイル』への流れについて。」(Togetter、2018年10月2日、2020年4月10日閲覧)

 

(2020年4月11日 加筆修正) とりわけ、注7を中心とした加筆はmizunotoriさん(@mizunotori)のご指摘を踏まえました。この場をお借りして感謝申し上げます。

(2020年5月1日 一部修正)

 

2010年代を代表するライトノベルとして ― 今井楓人『救世主の命題』再論

 皆さんこんにちは。昨年末のコミックマーケット97では、緋悠梨さんと夏鎖芽羽さんが企画されたラノベ読み合同誌 2010年代推し作品レビュー集』に寄稿しました。ここで私は今井楓人『救世主の命題〈テーゼ〉』全3巻(MF文庫J、2013~14年)を紹介しました。この作品は、以前3回にわたって2万2000字という長大なレビューを書いた、私にとって深い思い入れのあるオススメの作品です。

 今回の合同誌で「2010年代のライトノベル」として取り上げた際に、改めて『救世主の命題』を再読してレビューを書きました。すると不思議なものです。以前にあれほど論じたのに、改めて色々な思いがこみ上げてくるのです。だから、もう一度この作品について語ろうと思います。よろしくお付き合い下さい。

―目次― 

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救世主の命題(テーゼ) | MF文庫J オフィシャルウェブサイト

1.2010年代を代表する作家としての野村美月

  冬コミの『ラノベ読み合同誌』では、計38人が寄稿したのですが、ある作家さんに人気が集中しました。なんと私を含めた5人が野村美月さんの作品を推したのです。並居るラノベ読みを集めたなかで、企画者さんたちも意外だったようです(緋悠梨さんの「あとがき」参照)。私自身も大いに驚きました。

 例えば、『このライトノベルがすごい!2020』(宝島社)では、2010年代のランキングを掲載しているのですが、公開された上位50位には野村美月の作品が一つも入っていませんでした。2016年9月以降、単行本を刊行していないことが響いたものと思われます(注1)。けれども、多くのラノベ読みは忘れていなかったのです。野村美月のあのステキな作品の数々を!

(注1)『このライトノベルがすごい!』のランキングとしては、野村美月作品は『”文学少女”』シリーズが2009年に1位にランクインしており、最終巻が刊行された2011年には6位にランクインしています。

 

 以前このブログで、野村美月のことを「常に新しい機軸に挑戦し続けてきた実力のある作家」と評しました(「ヒストリカル・ファンタジーへの挑戦」3-(a))。文学への深い愛情に根ざした温かな文体、ひたむきで心打たれる登場人物たち、終盤へ向かってエモーショナルに盛り上がる構成、合唱・野球・演劇といった題材の巧みさ、女性主人公・男の娘・ヒストリカルファンタジーといった新しい要素の導入などなど、多くの読者を惹きつけてやまない作家です。

 2018年8月には、野村美月は自身のツイッターで、別名義でも活動していたことを明らかにしました補足参照)。ライトノベルでは今井楓人『救世主の命題』を刊行し、アダルトゲームでは村中志帆として数作品の脚本を書いていたというのです。改めて、野村美月の仕事の幅の広さと、いずれもステキな作品を世に送り出していたことに驚いたものです。私も今井楓人の正体をゲーム業界の関係者ではないかと推測していましたが(「終わってしまった物語を想像する」6)、どうやらある程度事実をついていたようです。

 考えてみれば、現代日本ライトノベルがゲーム業界と一定の関係を持っていたことは間違いありません。ゲーム業界出身の作家は数多くいますし、逆にライトノベルの作家としてデビューしてゲームの仕事を手掛けた人も数多くいると見られます。(しばしば別名義で活動されているので、正確な実態は分からないのですが。)また、作品の内容でも、ゲームの影響を受けた作品は数多くあると言えるでしょう。

 

 このように、作品の圧倒的な人気だけでなく、コンテンツ産業におけるライトノベルの位置という点でも、野村美月は2010年代のライトノベルを代表する作家であると言って間違いないでしょう。『ラノベ読み合同誌』でも、さまざまな角度から野村美月の作品が語られています。電子書籍版もありますので、ぜひご覧になってみて下さい

 

2.美少女ゲームに対する高い批評性

 それでは、改めて野村美月=今井楓人『救世主の命題』を読み直してみましょう。本作の舞台は、春が遅れて訪れる北国の山に囲まれた町。人間不信で、オカルトを愛する根暗な高校生の主人公が、突如現れた謎の美少女に5人の女性と恋をしなければ世界が滅びると告げられるところから物語は始まります。

 5人の美少女を「攻略」するという本作の設定は、一見すると美少女ゲーム的なストーリー展開をライトノベルに持ち込んだ、ありふれた「ハーレムもの」にも映ります。ところが、実際のストーリー展開を追うと、本作は二つの点で一般的な「ハーレムもの」とは決定的に異なることに気付きます。

 

 一つ目は、「モテ」という願望の充足より、痛みを通して少しずつ主人公が成長する点です。主人公の永野歩は、暗く淀んだ人格と感情を抱え、うじうじとしていて、ゆっくりとしか成長しない人物です。彼の成長と「モテ」は直結しておらず、むしろ自分やヒロインたちをめぐる人間関係の痛みを通して、少しずつ成長していきます。そんな主人公の姿にやきもきさせられながら、温かい気持ちを与えてくれるところに、『救世主の命題』の魅力があるのです。

 二つ目は、美少女ゲーム的なストーリー展開をライトノベルへと持ち込む際の困難に挑戦している点です。美少女ゲームでは、それぞれのヒロインに対して複数のルート=物語が設定されています。ところが、これをアニメ化・ノベル化する際には、一本の物語にしなければなりません。この場合、メインヒロインの物語を軸にして、他のヒロインのエピソードを絡めるというパターンが多いでしょう。これに対して『救世主の命題』では、一人のヒロインの「攻略」ごとに魔法が発動して関係がリセットされるという仕掛けを配置することで、複数のヒロインを「攻略」しながら一本の物語として破綻なく成立させることに成功しているのです(注2)

(注2)これとは異なる形で、すべてのヒロインのルートを消化した例もあります。アニメ版『CLANNAD』(石原立也監督、京都アニメーション、2007~08年放送)は、5人のヒロインのルートを原作に忠実に統合して注目されました。その際、時系列の整理と一部オリジナルな展開が用意されましたが、第1期18話「逆転の秘策」における藤林姉妹と智代が朋也を諦めるシーンは「神回」として有名です。また、アニメ版『ヨスガノソラ』(高橋丈夫監督、feel. 、2010年放送)では、ゲーム版の分岐ルートをそのまま再現するという荒業をやってのけました。

 

 さらに重要なのは、いま指摘した二つの点が相互に関わり合ってストーリーが展開していることです。主人公が感じる痛みとは、ヒロインと築きあげた関係が魔法によってリセットされてしまうことです。両想いになりながらも、誰とも最後まで結ばれることがない。それでも、ヒロインを救うには、忘れられながら世界を救うしかない……。「だから、僕は世界を救おう」――主人公はそう決意するのです[今井:1巻249ページ]

 こうしたストーリー展開のなかで、主人公とヒロインの意思と願望が高まりあい、そして愛の記憶を失うシーンは涙なくして読むことはできません。ただし、それは泣きゲーともやや異なるものです。泣きゲーの基本フォーマットは日常と不幸の組み合わせによる悲劇性の強調にあると言われています[涼元2006]。これに対して『救世主の命題』では、主人公はヒロインとの関係の喪失に痛みを感じても、単なる悲劇とは捉えていません。なぜなら、この痛みこそが、主人公を少しずつですが成長させるからです。主人公が一人ひとりのヒロインたちと関係を築いていくことを通じて、運命の恋愛は一度きりなのではなく、長い人生のなかの大切な一つの〈物語〉なのだと作者が優しく語りかけているように思います。

 

 このように、本作は美少女ゲーム的な設定を用いながら、美少女ゲームを乗り越えるテーマとストーリー展開を用意しています。すなわち、願望の充足ではなく痛みを通じた主人公の成長をテーマとし、ヒロインたちとの関係の構築と喪失というストーリー展開です。まさに、このことによって今井楓人『救世主の命題』は、美少女ゲームに対する高い批評性を持った作品に仕上がっているのです(注3)。そして、以上に述べてきた物語が紡ぐ温かな魅力と、批評的なテーマ・ストーリー展開によって、今井楓人『救世主の命題』は、2010年代を代表するライトノベルとして評価できるわけです。

(注3)加えて指摘すると、主人公とヒロインの関係はリセットされながら、主人公には記憶が残っているというのも批評的と言えるでしょう。ゲームであれば主人公自身の記憶もなかったことになりますが、プレイヤーは別ルートの物語を覚えています。つまり、『救世主の命題』の主人公は美少女ゲームのプレイヤーと同じポジションにいるわけです。ところが、主人公の性格は読み手に対して容易に同一化を許しません。主人公とプレイヤー=読み手の同一化とその困難は、美少女ゲーム的な設定に対して美少女ゲーム的な解釈を阻もうとする要素を本作が含んでいることを意味しているのです。

 

3.6番目のヒロイン・ルーメをめぐって

 今井楓人『救世主の命題』は、3巻目が刊行されて打ち切りとなっていまいました。この第3巻の「あとがき」で作者は、この作品には当初作中で示された5人のヒロインに加えて、主人公のサポート役であったルーメが6番目のヒロインであったことを明かしています[今井あとがき:3巻254ページ]

 考えてみれば、確かにルーメは特別扱いでした。第1巻のプロローグでは、未来からやってきたルーメが、未来の主人公に対して特別な感情を抱いていたことが描かれています。彼女はこの作品における魔法を体現する登場人物であり、一暗い感情を抱え続ける主人公を一貫して支え続けます。第2巻にいたっては、その巻のヒロインの芹乃を差し置いて表紙を飾ってさえいます。それでは、ルーメは本作のストーリー展開において、どのような位置づけであったのでしょうか。

 

 以前書いたブログ記事では、5人のヒロイン+ルーメの位置づけについて考察を行ないました。痛みを通じた主人公の成長をテーマとし、ヒロインたちとの関係の構築と喪失というストーリー展開のなかで、それぞれのヒロインは異なる役割を与えられています。

 まず、1番目のヒロイン・春坂遥菜(=“憧憬”のテーゼ)とは、現実よりも理想が先行する地に足がつかない恋愛をします。2番目のヒロイン・堀井芹乃(=“敵対”のテーゼ)とは、お互いのズレに向き合いながらの試行錯誤の恋愛をします。3番目のヒロイン・三田ひより(=“聖域”のテーゼ)とは、理想や思考錯誤の恋愛でなく、誤解や勘違いからの出発でもない、等身大の恋愛をします。

 記事では、書かれることのなかった残り3人のヒロインについても想像をめぐらせました。4番目のヒロイン・春坂千織(=“戯れ”のテーゼ)とは、年上との格好を付けようにも付けられないような、背伸びをする恋愛をするのではないかと思います。5番目のヒロイン・柏木心(=“傾国”のテーゼ)とは、相手の事情をくみ取った過ちと別れを受け入れる恋愛をするのではないかと思います。

 

 いよいよ、ルーメ(=“光”のテーゼ)の問題です。彼女の役割は、本作の結末と関わる部分なので想像がたいへん難しくなります。彼女は未来(=魔法の力)と過去(=愛の記憶)をつなぐ存在であることに私は注目し、そこから、「光」を介して未来と過去の対立を克服し、主人公がコンプレックスを乗りこえて現在を獲得するというハッピーエンドの物語を想像しました(「終わってしまった物語を想像する」7-(c))。

 けれども、今回『救世主の命題』を改めて読み返したとき、また別の結末についての想像が浮かびました。それは、主人公が魔法の力を獲得しつつも、ルーメとの関係を喪失してしまうという結末です。なぜなら、ルーメは亡びようとする未来に戻って、彼女との再会を待ち望んでいる[今井:1巻12ページ]未来の主人公に再会しなければならないからです。ルーメが消え去ることによって、主人公にとって特別な存在となるということです。この想像は、本作のテーマとストーリー展開に即したものだと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

 

おわりに

 ここまで、野村美月=今井楓人『救世主の命題』について、改めて考えてみました。本作は、児童文学をこよなく愛する彼女の温かな文体が、ストーリーと登場人物を優しく魅力的に描いた、私がもっとも愛する2010年代を代表するライトノベルです。まだ未読だという方は、ぜひ読んでみてください!

 本作が3巻打ち切りとなってしまったことは、返す返すも残念なことです。けれども、繰り返し読むことのできる名作であることは間違いありません。とてもステキな作品を送り出して下さった今井楓人=野村美月先生には、ただただ感謝するばかりです

 すでに記事を書いていたにもかかわらず新しい記事を書いたことは、屋上屋を架しただけかもしれません。けれども、私にとって『救世主の命題』は繰り返し語らなければならない作品なのだと思いました。そして、『救世主の命題』について再論きっかけを与えてくれた夏鎖芽羽さんと緋悠梨さんにも、この場をお借りして感謝申し上げます。

 

【参考文献】

・今井楓人『救世主の命題』(MF文庫J、2013年6月発売)

・今井楓人『救世主の命題2』(MF文庫J、2013年10月発売)

・今井楓人『救世主の命題3』(MF文庫J、2014年11月発売)

涼元悠一ノベルゲームのシナリオ作成技法』(秀和システム、2006年)

・緋悠梨・夏鎖芽羽編『ラノベ読み合同誌 2010年代推し作品レビュー集』(月をみつめる退屈な猫、2019年12月、コミックマーケット97同人誌)

・『このライトノベルがすごい!2020』(宝島社、2019年12月)

【Special Thanks】

・緋悠梨さん (HP: あるいはラノベを読む緋色 Twitter: @ge73hy

・夏鎖芽羽さん(HP: 本達は荒野に眠る Twitter: @natusa_meu

【過去記事】

b-sekidate.hatenablog.jp

 

(補足)野村美月=今井楓人について

  すでにツイッター過去の記事で触れているのですが、改めて野村美月先生が今井楓人名義で活動されていたことを明らかにしたツイートを紹介します。資料的価値があると判断し引用いたします。

野村美月 @Haruno_Soraha
別名義で書かせていただいたご本☺️🙏 先日、編集さんと過去作のお話をしていて、その流れで検索をした際、それまで見ていなかった感想を目にして胸がいっぱいになりました。今さらですがありがとうございます。こちらの3巻が自分でもすごく好きで、表紙のこの子を書けて良かったなと思っています。 pic.twitter.com/Efu07NmO9i
2018/08/17 22:38

https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/1030448909796044801

あとがきに書いた「✖︎✖︎はダメ!」と言われた企画は、これまた別名義で書いていたゲームで提出したものでした。ゲームのお仕事は最初から最後まで一気に書けるのが気持ちよくて大好きでした。こちら↓のお話は特に思い入れがあります。 pic.twitter.com/D4EESHGa3P

2018/08/17 22:39

https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/1030448923196895233

 

不安定な過去、その不気味な創出 ― 伊藤ヒロ『異世界誕生 2006』

 こんにちは。仕事が忙しい関係で、しばらく更新をさぼっておりました。話題作が色々出ているのに、積ん読がどんどん増えてしまって恥じ入るばかりです。とはいえ、積ん読にしては後悔してしまう作品も数多くあります。今回はそんな作品として、伊藤ヒロ異世界誕生 2006』(講談社ラノベ文庫、2019年9月発売)を紹介します。

 すでにこの作品はウェブ上でも話題を呼んでいますが、なぜこの本がスゴイのか、なかなか言語化しづらい作品でもあるようです。私が目にしたなかでは「小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ」が掘り下げた考察を行っていて、「『死の清算」と『メタフィクション』を見事に融合させているという点において、この作品はライトノベルの新境地を切り拓いています」と高く評価しています。これに対して、私自身は、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いを感じました。この感情の正体とは一体何なんでしょうか。多くの読者を惹きつけてやまない『異世界誕生 2006』の不思議な魅力に今回は切り込んでいこうと思います。

―目次―

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講談社ラノベ文庫|既刊案内(シリーズ一覧)

1.伊藤ヒロの不気味な総括的作品

 さて、本作の作者である伊藤ヒロについては、贅言は必要ないでしょう。ゲーム業界出身で、『魔法少女禁止法』(一迅社文庫、2010年7月発売)でライトノベル作家としてデビュー。『女騎士さん、ジャスコ行こうよ』(全4巻、MF文庫J、2014~15年)、『家畜人ヤプー Again』(鉄人社、2017年)など、極めてアクの強い作家として知られています。

 本作『異世界誕生 2006』もまた、近年流行っている「異世界もの」に対するアンチテーゼとして書き始められましたが、書籍化のなかで大幅に手直しを加えて、独自の作品になったと語っています。それは、「ラノベ作家伊藤ヒロの、現段階での総括でもあります」と述べています[伊藤あとがき:1巻294ページ]

 どういったところが伊藤ヒロにとっての総括なのでしょうか。この点についても、作者は明確に語っています。「この本を通して伝えたいのは、人と人との関わり方や、家族のあり方、さらには創作物に対する作者の向き合い方……そういったものです。難しいテーマでしたが、がんばって書きました」と述べています[伊藤あとがき:1巻294ページ]。確かに、本作『異世界誕生 2006』を読めばそうしたテーマは明確に描かれています。

 

 でも、ちょっと待ってください。この本を一読すれば分かるのですが、本作はそんなに一筋縄にいく作品ではありません。例えば、上に引用した本作のテーマですが、近年のさまざまな作品がこの問題を描いていたはずです。人と人との関わり方といえば、大ヒット作である渡航『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』(ガガガ文庫、2011~19年)が、まさにそれ。家族や創作を主題とした作品も数多くあります(注)。さらに言えば、伏見つかさエロマンガ先生』(電撃文庫、2013年~)が、人と人との関わり方+家族のあり方+創作物に対する作者の向き合い方について描いています。

(注)おススメの作品としては、岩田洋季花×華』(全8巻、電撃文庫、2010~13年)と遍柳一『平浦ファミリズム』(ガガガ文庫、2017年)があります。また、本ブログでは五十嵐雄策『幸せ二世帯同居計画』電撃文庫、2016年)や木緒なち『ぼくたちのリメイク』MF文庫J、2017年~)を紹介していますので、そちらもご覧下さい。

 

 もちろん、そうしたことを伊藤ヒロが知っているはずです。であるならば、もっと深い部分で、このテーマが問われなければなりません。そして、冒頭でも述べたように、少女の目線から語られる、痛々しくて苦しいこの物語を通じて、もっと、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いを私は感じました。異世界誕生 2006』には、このテーマを貫いている奥底の不気味な響きが存在する、そのように感じるのです。その不気味な響きについて語る前に、まずこの物語の概要を確認しておきましょう。

 

2.物語のさまざまな読み方

(a) 妹が語る、兄の死とその後の家族の物語

 『異世界誕生 2006』の内容紹介は、公式HPや文庫裏表紙のものがとても優れているので、以下に引用しておきます。

2006年、春。小学六年の嶋田チカは、前年トラックにはねられて死んだ兄・タカシの分まで夕飯を用意する母のフミエにうんざりしていた。たいていのことは我慢できたチカだが、最近始まった母の趣味には心底困っている。フミエはPCをたどたどしく操作し、タカシが遺したプロットを元に小説を書いていた。タカシが異世界に転生し、現世での知識を武器に魔王に立ち向かうファンタジー小説だ。執筆をやめさせたいチカは、兄をはねた元運転手の片山に相談する。しかし片山はフミエの小説に魅了され、チカにある提案をする――。
どことなく空虚な時代、しかし、熱い時代。混沌を極めるネットの海に、愛が、罪が、想いが寄り集まって、“異世界”が産声を上げる。
[1巻裏表紙]

 このように、この物語は嶋田チカという一人の少女の目線で進んでいきます。ストーリーが進むにつれて、母フミエの精神状態がどんどんおかしくなってゆき、妹チカも戸惑いを深めてゆきます。その混乱のなかから、徐々に兄タカシの死の「真相」が明らかになっていき、最後は、兄の死の「真相」をどのように改めて受け止めるか、という形で物語は収束します。

 

(b) 息子を失った母親の痛々しい物語

 この物語の語り手は、亡くなった嶋田タカシの妹チカです。ですが、物語の中心にいるのは母のフミエです。この点は、前島賢が簡潔に整理していますので、引用してみましょう。

……『異世界誕生 2006』は、事故死した長男の「異世界転生後」を書き続ける母親・嶋田フミエの物語だ。
 しかし少なくない読み手が早々に挫折するのではないかと心配になるほど、本書で描かれる光景は痛々しい。息子の死を受け入れずに執筆に没頭するフミエのせいで嶋田家は崩壊寸前。さらに肝心の彼女の小説は稚拙なもので、だというのにタカシを殺してしまった自責の念に駆られる元トラック運転手の片山青年は、まったくの善意で彼女の作品をネットで公開しようとし、当然のごとくそれは匿名の悪意に晒される。正直、評者も読んでいて胃が痛くなった。
 だが、最悪の展開の中にも伏線が差し込まれ、タカシの死の真相が明らかになるにつれ、物語の雰囲気は変わっていく。遺された者たちが、小説を書くこと、読むことで、ひとりの人間の死を受け入れていく、再生の物語の様相を見せ始める。このどん底からの展開が実に鮮やかである。[前島2019:好書好日]

物語の中心に母フミエがいることは、各話のタイトルが「母フミエと、〇〇」となっていることからも確認できます(プロローグとエピローグを除く)。

 この文章で指摘されているのは、息子を失ってしまった母親の痛々しさです。当初は妹チカの目線から物語を追っていた読者は、母親の痛々しさに直面して、物語の中盤では無能感さえ覚えるでしょう。

 

(c) 「不安定な過去」が創出される物語

 このようにストーリー展開を整理していくと、本作の骨格が、息子を失った母親とその娘の物語であることが改めて確認できます。過去は決して取り戻すことができない――そんな深い後悔を胸に抱きながら、取り返しのつかなさを少しずつ受け入れていく。多分、それがこの作品の普通の読み方でしょう。

 しかし、それからはどうしても零れ落ちてしまう物語のピースがいくつも残されています。そこで今度は、さまざまな登場人物による、複数の物語の集まりとして『異世界誕生 2006』を読んでみましょう。

 

 物語が始まる時点では、嶋田家の誰もが、タカシの死を受け止めきれておらず、家族は今にも空中分解しようとしています。嶋田家の人々は、どうしてタカシの死をうまく受け止められなかったのでしょうか。それぞれの事情は物語のなかで語られています。その理由を突き詰めれば、問題はタカシの死そのものよりも、タカシの死に至る過去への認識が揺らいでいる、ということに突き当たります。

 タカシはどのような人物で何をしていたのか、家族はそれぞれにタカシにどのように振る舞っていたのか――家族の認識はバラバラで食い違っています。嶋田家の人々にとって、タカシの死は受け止めることの困難な「不安定な過去」となっているのです。

 

  嶋田家の人々の認識の食い違いは、「人によってものごとは異なって見える」といった一般論では片付けられないほどに深刻です。母フミエは、「不安定な過去」に突き動かされて不気味な小説を書いています。認識の不一致に気付いている父カズヒロも、「不安定な過去」をどうにかしようとせず逃避しています。さらに言えば、タカシを轢き殺してしまった片山青年も、死に対する罰や償いに執着して母フミエやや妹チカの心をかき乱します。この物語の登場人物は、自らの手で「不安定な過去」を創出しているわけです。

 ストーリーが展開するにつれて、嶋田家を取り巻く登場人物の行動が、過去の認識の不一致をさらに増幅させてしまいます。その結果、フミエは精神不安定な状態に陥ります。次々と新しい事実が判明しながらも、「不安定な過去」が拡大再生産されていくのです。

 

 物語の終盤で、「不安定な過去」を肯定する動きがようやく現われます。ターニングポイントは、妹チカが過去についての認識の食い違いに気付いて、フミエに対して小説を書くことを初めて認めたところです(第15話)。その後、出版社の編集者、タカシの過去を知るネット上の人物が登場して、「不安定な過去」が創出した小説を応援するようになります(第16話)。とりわけ、悪罵を続けていたネット民が過去のタカシを肯定したことで、ようやく「不安定な過去」は安定性を獲得したわけです。

 しかし、よく読んでみると、安定性を獲得したのは母フミエと妹チカだけであることに気付きます。チカが小説を書くことを認めるのに先立って父カズヒロは見捨てられ(第15話)、母と妹の問題が解決したことで片山青年は罪を償う場所から去り、自身の感情を整理できないまま果てしない別世界へと旅立つように姿を消します(第17話)。「不安定な過去」はすべて決着がついたわけではなかったのです。

 

3.メタフィクションが紡ぐ過去の過去

 ここまで見てきたように、『異世界誕生 2006』は、人と人との関係や、家族のあり方をめぐる「不安定な過去」を解決させきっていません。それどころか、この作品はさらにもう一つの「不安定な過去」が物語を覆っています。このことは作品の構造から確認することができます。

 

(a) 2006年という過去を意識させる仕掛け

 この作品は、現在から2006年の過去を描いた物語です。ケータイ小説『恋空』のヒット[同前56ページ]など、2000年代半ばの雰囲気が具体的に描かれており、このことは様々な作品紹介が肯定的に取り上げています。

タイトルのとおり本書の舞台は2006年だ。ライトノベルにおいてもファンタジーの流行は過去のものになっていた時代の空気が巧みに映し出されている。現在のウェブ小説発の「異世界転生もの」ブームなど想像もできなかった黎明期の書き手は、どんな気持ちで作品を投稿していたのだろう。[前島2019:好書好日]

なお、2006年という時代設定も絶妙。今や巨大なネット小説の投稿サイトとなった「小説家になろう」が開設されたのは2004年である。しかし当時はまだ、ネット小説の主流は個人のHPだと記憶している。さらに、2チャンネルへの晒しや炎上なども、時代の空気を感じた。当時のネットの状況を知る人なら、懐かしく読むことができるだろう。[細谷2009:リアルサウンドブック]

 

 しかし、私にはどうにも違和感を覚えます。郊外型のジャスコや携帯電話の普及[伊藤:1巻14ページ]、少し時代遅れのフロッピーディスク[同前28ページ]、今は変わってしまったタバコの銘柄[同前51ページ]などで説明的な文章が意図的に挿入されていて、2019年という現在から2006年という過去を描いていることを読者に強制的に意識させています

 この2006年という過去は、作者である伊藤ヒロが分析し解釈した過去に他なりません。例えば、「俗に、ゼロ年代と呼ばれる一〇年間。/なにもかもが、どことなく空虚な時代だった。ある学者はこの一〇年間を、『日本史上もっとも文化的にからっぽな年代』と呼んだ[伊藤:1巻64ページ]という表現は、作者の分析を前面にしています。ここまでに説明的なのは、明らかに作者が「わざと」やっているからです。

 

(b) メタフィクションが立ち上げる「異世界」としての過去

 なぜ、作者は2019年という現在から2006年という過去を描いていることを「わざと」読者に意識させているのでしょうか。それは、異世界物」が流行っている現在から、ゼロ年代ファンタジー小説が創作されている状況を描くというメタフィクションを作者が強調したいからです。

 本作が「メタフィクション」であることについては、「小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ」が掘り下げて説明しています。

異世界誕生2006』は、現実世界を舞台としています。そして舞台となった年は、2006年。

2010年代における現在の流行・興隆の様子を、ゼロ年代異世界ファンタジーを執筆する書き手の周辺を舞台としてフィードバックさせることによって、メタ的な視点から現在の異世界ファンタジーを――ときにスパイスを効かせつつ――描写・分析する様は見事です。

(……)

異世界誕生2006』において、死んだ息子が遺したプロットをもとに小説を書くようになった母親は、精神的不安定さから、現実と虚構が、精神世界と作品世界がないまぜになってゆきます。書き手の現実が小説に織り込まれてゆく様にはゾッとせずにはいられません。メタフィクションならではの構造です。

伊藤ヒロ『異世界誕生2006』――ライトノベルの新境地を拓いた作品を読みませんか? - 小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ

 

 ところが、このメタフィクションとしての性格が強調されることで、かえってこの作品の描く過去に「わざとらしさ」が刻み込まれてしまいます。この「わざとらしさ」は、読者が物語に入り込むことを意図的に妨げ、読者は物語との断絶を常に感じながら作品を読み進めることになります。こうして、現在と2006年の断絶が不自然に強調され、「異世界」としての過去が不安定な姿で立ち上がります。この作品それ自体に「不安定な過去」が覆いかぶさっているのを読者は発見するのです。

 

(c) 過去の過去を覗き込む

 つまり、本作は、現在から2006年という「不安定な過去」を語り、そのなかでタカシの死という「不安定な過去」を語っているという、底の抜けた構造を持っているわけです。この底の抜けたような構造から物語を改めて読んだとき、読者はぞっとするような、背筋の凍りつく思いを味わうことになります。

 

 物語の中盤での「不安定な過去」がもたらした母フミエの行動は、単にそれが痛ましいだけでなく、過去の過去ゆえを覗き込むがゆえに読者に絶望的なまでの不能感を与えます。読者は物語との断絶を常に感じながら読むゆえに、ストーリー展開の取り返しのつかなさを覗き込むことしか出来ないのです。

  物語の終盤では、一度は収束したはずの「不安定な過去」さえも、もう一度揺らぎだします。母フミエと妹チカたちは、タカシの死とそれに至る過去を、何かしら都合の良い解釈で「清算してしまった」だけかもしれないのです。その証拠に、エピローグでは母フミエによる小説の創作そのものを揺るがす謎の語りが挿入されています。

 そうなると、本作の三人称文体もまた不気味に思えてきます。そこには、《作者の語り > 妹チカの目線 > 母フミエの不安定な行動》が織り込まれていて、常に揺らぎを伴っています。さらに、《フミエの書く物語》と《エピローグの謎の語り》が加わります。

 

 このようにして、「不安定な過去」が繰り返し創出されてくるという不気味な世界を読者は覗きこむことになります。「不安定な過去」は何重にも響き渡り、鳴り止むことは決してありません。これこそが、私が『異世界誕生 2006』で覚えた、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いではないかと思うのです。

 

おわりに

 ここまで、伊藤ヒロ異世界誕生 2006」を取り上げて、メタフィクションが紡ぐ過去とその過去の物語を通じて、「不安定な過去」が繰り返し創出されているという作品であることを論じました。これは読み込みすぎだと思う方も多いかもしれませんが、私が感じた、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いを与える不気味な響きについて、自分なりに考察した結果です。

 もう一つだけ付け加えるとすれば、「異世界もの」や「時間転移・やり直しもの」には、一定の空間に主人公/語り手が介入するという、「不安定な過去」の類を創出する効果がしばしば埋め込まれているように思います。(例えば、木緒なち『ぼくたちのリメイク』もその一例かもしれません。)刊行が予告されている第2巻『異世界誕生 2007』で、さらに何が語られるのか。新たに創出されるものに期待する次第です。

 お付き合い下さり、ありがとうございました。

 

【参考文献】

伊藤ヒロ異世界誕生 2006』(講談社ラノベ文庫、2019年9月発売)

・細谷正充「異世界転生へのアンチテーゼ小説? 伊藤ヒロ『異世界誕生 2006』が投げかけるもの」(リアルサウンド ブック、2019年10月14日)

前島賢「異世界転生もの」誕生の瞬間に思いを馳せたくなるラノベ 伊藤ヒロ「異世界誕生 2006」」(『朝日新聞』2019年9月21日付、好書好日)

・「伊藤ヒロ『異世界誕生2006』――ライトノベルの新境地を拓いた作品を読みませんか?」(小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ、2019年9月12日)

 

(2019年10月26日 一部加筆。また、ツイッター上で感想を下さった@amareviwer氏に感謝申し上げます。)

(2019年12月12日 一部修正)

 

異世界誕生 2006 (講談社ラノベ文庫)

異世界誕生 2006 (講談社ラノベ文庫)

 
異世界誕生 2007 (講談社ラノベ文庫)

異世界誕生 2007 (講談社ラノベ文庫)