現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

差別と抑圧の世界をぶっとばせ ― 輝井永澄『空手バカ異世界』

 いつもお読み下さりありがとうございます。読みたいライトノベルがあっても、なかなか時間が取れずに積ん読が増え続けています。心の負債を溜めないためにも、買ったらすぐに読む、そんな勢いが大切だと痛感する毎日です。

 さて、勢いよく読んだということでは、今回紹介する輝井永澄『空手バカ異世界』(富士見ファンタジア文庫2823、2019年2月発売)は実に強烈でした。もう頭がおかしくなるような作品です(これは褒め言葉)。小説サイト「カクヨム」に2017年から連載されている、勢いに溢れた迷作について、勢いに任せて語ってみたいと思います。

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WEB発小説特集 | 富士見書房 | 空手バカ異世界

空手バカ異世界 ~物理で異世界ケンカ旅~(輝井永澄) - カクヨム

1.空手+異世界+ギャグの迷宮

(a) 格闘マンガへの自己言及的構造

 まずは、本作『空手バカ異世界』の基本的な説明から。タイトルは梶原一騎・原作の空手バカ一代』が元ネタ。こちらは『週刊少年マガジン』に1971~77年に連載されたもので、伝説の空手家にして極真空手の祖である大山倍達の生涯を脚色しまくった、これまた伝説的作品です。これで空手の道に入った人も多いという、マンガが現実のスポーツや武道に影響を与えた初期の例の一つです。ちなみに、つのだじろうの絵よりも、影丸穣也の絵の方が個人的には好みです。

 『空手バカ異世界』は、作者の輝井永澄いわく作家仲間とのSNS上での冗談のやりとりから生まれた、文字通りのネタ作品であったと言います[輝井2019:あとがきpp. 301- 302]。そのため、元から空手+異世界+ギャグという基本構造は定まっていたことになります。ここをどう料理するかが、作家の腕の見せ所になるわけですね。

 

 ところで、格闘マンガやスポ根マンガを読んでいると、真面目に格闘・スポーツをやっているはずなのに、どうしてかギャク臭くなってしまう作品って多くないですか? 元ネタの『空手バカ一代』だと明らかに話を盛りすぎなパートがありますし、森川ジョージの『はじめの一歩』や板垣恵介の『バキ』なんかも、どうにもおかしいシーンが出てきます。恐らくその原因は、登場キャラクターが超人的な動きを見せたり、常識ばなれした特殊な世界を描くことによる、物語世界と読者のギャップなのだと思います。

 こうしたギャップを逆手に取ってネタにするとギャグになります。マンガの場合ですと、島本和彦の『炎の転校生』や『逆境ナイン』がスポ根をギャグ化していますね。ライトノベルでは格闘・スポーツものはそれほど多くないため、やや手薄なジャンルではなかったかと思います(注)。とにかく要するに、『空手バカ異世界』には格闘・スポーツマンガあるあるを更にネタにしたような、自己言及的な構造を感じるということです。

(注)筆者はこの手のジャンルは詳しくないので、ライトノベルの格闘・スポーツ+ギャグもの(異世界に限らない)の作品を教えて下さい。m(_ _)m

 

(b) 「異世界もの」への自己言及的構造

 異世界+ギャグという組み合わせにも注目する必要があるでしょう。この組み合わせは新しいものではなく、神坂一スレイヤーズ』シリーズが今なお代表作です。(ちなみに、スペースオペラに広げると、高千穂遙『ダーティーペア』、吉岡平無責任艦長タイラー』、神坂一ロスト・ユニバース』、庄司卓それゆけ! 宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』など結構あるジャンルです。)とはいえ、『空手バカ異世界』は流行に敏感なカクヨム発だけあって、ちゃんと最近の「なろう系」と呼ばれるような「異世界転生・転移もの」の動向を押さえています。

 例えば、物語の始まりはトラックとぶつかる→天国で神と出会って転生について説明を受けるという定番展開をギャグでずらしています。暁なつめ『この素晴らしい世界に祝福を』(既刊15巻ほか、角川スニーカー文庫、2013年~)、冬原パトラ『異世界はスマートフォンとともに』(既刊15巻、HJブックス、2015年~)などが似たパターンです。

 主人公のチート的能力をギャグとして描くのも定番の面白さがあります。これは物語世界と読者のギャップに対して、地の文や一部の登場キャラクターがツッコミを入れるという形式を取ります。近刊だとつちせ八十八『スコップ無双』(MF文庫J、2019年1月発売)とかもそうですね。

 

 また、最近の「異世界もの」の動向と関わって、『空手バカ異世界』ではサブジャンルとしての「復讐もの」が物語のバックグラウンドに置かれている点が見逃せません(「復讐もの」については、「2018年の回顧と雑感2-(b) もご覧下さい。)。ただし、復讐を狙っているのは主人公ではなく、異世界から転移させられた元勇者の側です。すなわち、闇堕ちしてしまった元勇者の復讐を阻止することが、ストーリー展開の基軸となっています。むしろ、本作はギャグなのですから、「復讐もの」を空手によって粉砕しちゃうという展開なのですけれども。

 つまり、本作『空手バカ異世界』は、「異世界もの」(あるいは「なろう系」)への自己言及的な構造も持っているということなのです。ギャグには自己言及が付きものですが、格闘ものと異世界ものへの二重の自己言及という迷宮のような構造が存在することで、本作が成り立っているというわけです。いや~、すごい(褒め言葉)。

2.〈差別と抑圧の世界〉をめぐって

(a) 世界設定と物語の構造

 さて、上に論じたように『空手バカ異世界』が「復讐もの」をバックグラウンドに取り入れた結果、重要なテーマが浮上することとなります。それが世界設定を覆う〈差別と抑圧の世界〉の問題です。

 そもそも「復讐もの」において登場キャラクターが復讐を行う理由は、彼らに襲いかかる圧倒的な理不尽であり、それは多くの場合、物語世界における政治・経済構造や社会・文化状況といったものに起因しています。ファンタジー世界の定番である中世的世界とは、貴族あれば賤民ありの前近代的な身分制社会です。騎士や武士は支配者の証として刀剣を所持して直接的暴力を下々の者に見せつけていますし、庶民だって生き延びるのに必死な自力救済の社会です。職業・民族・男女による差別だって当たり前。それが、ファンタジーという世界設定が抱える〈差別と抑圧の世界〉です。いわゆる「ダーク・ファンタジー」において前景化する世界です。

 『空手バカ異世界』では、「復讐もの」をバックグラウンドに取り込んだ世界設定を持ち、そこに主人公が空手で活躍するというストーリー展開が組み合わさります。しかも、主人公のキャラクターが非常に明快です。主人公である「おれ」はスポーツとしての空手を否定して実戦的な空手を追求してきた人物です。そのため、直接的暴力を抑制している現代世界に対して違和感を持ち、「ただひたすらに武の道を極めたい」と願っています。こうして、世界設定・ストーリー展開・キャラクターが上手く組み合わさって、もの凄いスピードでギャグが繰り広げられるのです。(他方で、主人公以外のキャラクターが薄いところがあり、その点が本作にとってマイナスです。)

 

(b) 主人公の目指す道は?

 もう少し、世界設定とキャラクターの関連を掘り下げてみましょう。「武の道」を極めようとする主人公が目指すのは、「暴力」が肯定される世界なのでしょうか。答えはノーです。彼は差別と抑圧に満ちた異世界に対しても違和感を抱いていて、主人公を差別・抑圧しようとする登場キャラクターをやり込めるなどしてします。一方で直接的暴力を抑制した現代世界に、他方で直接的暴力が認められている異世界にも、主人公は違和感を持っているとすれば、これは実にハードな展開にようにも思えます。けれども、このハードさを乗り越える原動力もまた空手(とギャグ)です。 

 物語の終盤で主人公が闘うのは猪鬼同胞団〈オーク・マフィア〉です。主人公は彼らを打ち破って、彼らを空手で結ばれた仲間にすることに成功しました。国家の権力者や社会の有力者ではない主人公たちにとって、「同胞」の力ほど頼もしいものはありません。主人公が物語の先に目指すのは、「暴力」に満ちた異世界でもなければ、「暴力」を歪に抑制する現代世界でもない、「暴力」が社会と調和した同胞たちの世界ではないだろうか――。そんなことを本作は夢想させてくれました。

  そんな世界はありえない? リアルじゃないって? ほらほら、〈差別と抑圧の世界〉をぶっとばっせ!って。『空手バカ異世界』は、ギャクですからね。

おわりに

 ツイッターやネットの反応を見ていると、『空手バカ異世界』は、作者である輝井永澄の空手愛や、ベタベタのギャグの側面から話題になっていましたが、本ブログで物語の構造の面からスポットライトを当ててみました。いかがでしたでしょうか。

 

 この記事を書きながら、「カクヨム」発の商業作品の意味について考えさせられました。先日書いた記事に対して、市永剣太さま(@yam1801 - カクヨム)から寄せられたコメントがきっかけです。「カクヨム」といった小説投稿サイトが収益を上げていながら、それが書き手である投稿者に還元されないという問題点に関することだったと思います。

 確かに海外では書き手に収益が行くものもありますし、「note」などのように閲覧者が書き手にお金を支払うサイトもあり、商業出版社が優位に立つネット商売がいつまで持つかは先行き不明です。もちろん、書き手の方だって今のままだと消えてしまう人も多いでしょう。私自身、整理できていないことも多いので、今後の課題とさせて下さい。

 それでは、失礼します。

 

【参考文献】

・輝井永澄『空手バカ異世界』(富士見ファンタジア文庫2823、2019年2月発売)

 

(2019年3月26日 一部修正)

空手バカ異世界 (ファンタジア文庫)

空手バカ異世界 (ファンタジア文庫)

 

 

2018年の回顧と雑感

 2019年になりました。昨年5月以来、ブログの更新が滞ってしまいました。新しい仕事が忙しくて、筆を執る時間が取れなかったためです。すっかり機会を逸してしまった作品が多くて内心忸怩たる思いです。せめて2018年の回顧と最近の雑感などを書いておこうと思います。

1.野村美月先生について

 去年、何よりも驚くとともに嬉しかったのが、野村美月先生の次のツイートでした。

野村美月 @Haruno_Soraha
別名義で書かせていただいたご本☺️🙏 先日、編集さんと過去作のお話をしていて、その流れで検索をした際、それまで見ていなかった感想を目にして胸がいっぱいになりました。今さらですがありがとうございます。こちらの3巻が自分でもすごく好きで、表紙のこの子を書けて良かったなと思っています。 pic.twitter.com/Efu07NmO9i
2018/08/17 22:38

https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/1030448909796044801

ここで紹介されているのが、今井楓人の『救世主の命題〈テーゼ〉』で、野村美月=今井楓人が発覚してツイッターライトノベル界隈で話題になりました。近年でこの作品を紹介していて、なおかつ検索の上位に引っかかるのは本ブログだけなので、私の自意識過剰でなければ(←ココ大事!)、野村先生がこのブログをご覧になったということです。

 野村美月先生は、私にとって本当に大好きな作家さんです。一作一作語りたいことだらけです。特に3回目の「終わってしまった物語を想像する」の、〈物語を想像する〉という発想は、『“文学少女”』シリーズへのリスペクトです。まさか、その作品を書いたのが野村先生だったとは!

だから、僕は世界を救おう ― 今井楓人『救世主の命題』(その一)

地球が救われた未来で、僕らはまた恋をするから ― 『救世主の命題』(その二)

終わってしまった物語を想像する ― 『救世主の命題』(その三)

 

 ライトノベルは、作者と読者の距離が近いところが一つの特徴だと思うのですが、こうした近さが自分自身に跳ね返ってくるのは、とても驚くとともに嬉しいことでした。これ以外にも、大澤めぐみ先生、肥前文俊先生、高橋徹先生がツイッターで本ブログに言及していただきましたし、他にも多くの方に言及していただきました。こんな零細ブログなんぞ、誰も見ていないだろうと自己満足のつもりでやっていたのが、こんな風に扱ってもらえることが新鮮でした。この場をお借りして感謝申し上げます

2.2018年のライトノベル読書雑感

(a) 異世界ファンタジーにおける「歴史」

 2018年は引き続きウェブ小説を震源とした異世界ファンタジーの刊行が続いていました。「なろう」原作も含めていくつか読みましたが、多くの興味深い作品に出会いました。澪亜『公爵令嬢の嗜み』、漂月『人狼への転生、魔法の副官』、どぜう丸『現実主義者の王国再建記』などの作品は、魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」(2ちゃんねる、2009年、『魔王勇者』)以来の政治制度・経済システム・農業技術などに現代の知識で介入してゆく作品です。

 これらの特徴は、異世界への転生や転移によって主人公が「チート」的な戦闘能力を獲得するのではなく、主人公の戦闘能力と現代知識に直接の関連性がないという点でしょう。ストーリー展開は、社会改革と政略が軸となります。

 

 こうした作品の難点は、ファンタジー世界に現代的な政治制度・経済システム・農業技術が通用し定着するか、という点にあると思います。どれほど優れた知識や技術も、それに相応しい社会経済構造や政治・文化状況がなければ活用することができないということです。この辺りを徹底的に考察すると、ファンタジーというよりはSFっぽい作品になってしまいます。その辺のバランスを考えて作られた作品としては、肥前文俊『青雲を駆ける』が挙げられます。実際に、中世世界を舞台とするSF作品には、たくさんの良作が存在しています。

 これに対して、ファンタジー側からの応答とは何でしょうか。2点指摘しましょう。『公爵令嬢の嗜み』の場合は近世から近代への「近代化」、『人狼への転生、魔法の副官』や『現実主義者の王国再建記』の場合は中世から近世への「近世化」を読み取ることができます。つまり、歴史の発展の一環として主人公の活躍が描かれるということです。これが第1点目。

 加えて重要なのが、主人公が所属する文明世界とは異なる文明世界(たとえば、海や山をこえた先の世界)との交流が描かれていることも注目できます。両者の文化・風習の相違と関係づくりが、物語に取り入れられています。つまり、歴史の交流の一環として主人公の活躍が描かれるということです。これが第2点目になります。

 

 こうした物語が抱える課題も、これらの作品は共有しています。歴史の発展や交流のなかで、取り残されたり、生きる業を失ってしまう民衆への視線が欠けがちだという課題です。主人公たちの庶民性によって補完されてはいても、やはり主人公たちは支配者です。〈主人公が支配者であるということ〉をどう考えるのか。この問いへの回答がある作品を個人的には期待しています。

公爵令嬢の嗜み (カドカワBOOKS)

公爵令嬢の嗜み (カドカワBOOKS)

 
人狼への転生、魔王の副官 1 魔都の誕生 (アース・スターノベル)

人狼への転生、魔王の副官 1 魔都の誕生 (アース・スターノベル)

 
現実主義勇者の王国再建記 1 (オーバーラップ文庫)

現実主義勇者の王国再建記 1 (オーバーラップ文庫)

 

 

(b) 別離と死をめぐる苦しみ

 「別離と死」をめぐる苦しみに焦点が当てられたいくつかの作品にも出会いました。「なろう」系における復讐ものは、一つのジャンルとして確立しているように見受けられます。その代表作の一つが、木塚ネロ『二度目の勇者は復讐の道を嗤い歩む』です。

 ところで、物語の類型としての復讐譚は、古今東西に見られる一大ジャンルですが、日本では曽我兄弟や赤穂浪士のような「仇討ち」ものが伝統としてあります。ところが、日本の「仇討ち」ものは、復讐にまつわるバックグラウンド・ストーリーや、復讐とは異なる倫理・心情との絡みが重視される傾向があるように思います。つまり、純粋な「復讐」とは異なる要素が盛り込まれているのではないか、ということです。

 これに対して、『二度目の勇者は復讐の道を嗤い歩む』の主人公は、転移前の現代日本の倫理観や心情とも、転移後のファンタジー世界の論理とも切り離された〈復讐への情念〉を持ち続けます。「復讐は空しい」といった忠告に対して、まっこうから反論します。この情念を支えるものこそ、別離と死の繰り返される苦しみ記憶なのです。

 

 異世界戦記において、別離と死を繰り返し体験する作品が出てきました。師走トオル『ファイフステル・サーガ』の主人公は、未来予知という形で別離と死を繰り返し体験し、未来を変える行動によって活路を見出そうとします。

 未来予知という道具立ては、それほど珍しいものではありませんが、別離と死を繰り返し体験するという苦しみは、主人公を差し迫った危機から救うとともに、主人公の精神に影響を与えざるをえません。発狂してしまった方が楽なきわめて過酷な状況を、作者は主人公に与えました。この残酷な物語ゆえに、読者は手を止めることができず、息をのんでページをめくり続けるのです。

 

 発狂してしまった方が楽なのか。この問いへの残酷な「ノー」を突き付けた作品も存在しています。全3巻で完結した内堀優一『あんたなんかと付き合えるわけないじゃん!ムリ!ムリ!大好き!』の場合、主人公はヒロインの別離と死を忘却し、ヒロインの幽霊あるいは幻覚が見えてしまっています。ですが、「死んだはずのヒロインが生きている」という主人公の主張は、周りから見れば彼がおかしくなったようにしか見えません。

 物語が進むとともに、主人公と周囲のズレが拡大し、主人公は親友と仲違いしたうえ、異常者としてイジメを受けることになります。別離と死を忘却することは何等の解決にはならず、物語の後半は主人公がヒロインとの別離と死をどのように受け止めるかが焦点となります。そしてそれは、ヒロインの幻覚を主人公が失ってもなお続くのです。揺れ動く主人公の悲痛な叫びが、読者を繰り返し揺さぶる作品でした。

 

(c) 豊作であった現代を舞台とした作品

 2018年は現代を舞台とした作品がとても豊作であったと感じます。作品を挙げだすとキリがないのですが、若干整理してみたいと思います。

 まず、ミステリ系の作品群です。定番のジャンルだけに、さまざまな味付けがなされていて、どれも大いに楽しめました。例えば、正統派はやはり酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』で、後ろ暗い過去を抱えた主人公が、さまざまな謎を解くなかでヒロインとの関係を紡いでいくという定番にして王道の展開です。かめのまぶた『エートスの窓から見上げる空』は、おじいちゃん教師と女子高生という異色の組み合わせ。「妖怪もの」の要素を加えた太田紫織『昨日の僕が僕を殺す』なんかもありました。

 なかでも、三田千恵『彼女のL 嘘つきたちの攻防戦』は出色です。ストーリー展開の意外性、嘘を見破ることができる主人公の能力という道具立て、情景描写と登場人物の関係性の変化のどれもが秀逸。そして、これらが見事にかみ合った作品であったと思います。

 

 個人的に関心を惹いたのが、才能のあるヒロインとの関係性に悩む作品群が目立ったことです。樹戸英斗『優雅な歌声が最高の復讐である』は、歌えなくなった世界的な歌姫と、怪我が原因でサッカーをやめた主人公をめぐるお話です。また、あまさきみりと『キミの忘れ方を教えて』もまた、有名女性シンガーと、音楽を諦めた主人公との関係修復をめぐる物語です。いずれも、主人公が過去に挫折を抱えた人物であり、彼がどのようにして青春を取り戻すかが、ストーリー展開の軸となっています。

 こうした作品は、ヒロインの魅力がカギになってくるように思います。桐山なると『オミサワさんは次元がちがう』は、その点で大変良い作品でした。当初は孤独なヒロインの心を開いてゆくのかと思いきや、彼女が見て感じている「世界」そのものへと分け入っていくストーリー展開。読み進めるほどに、ヒロインの一挙手一投足がとても愛おしく感じます。ごんごんじー。

 

 これ以外にも、園生凪『公園で高校生達が遊ぶだけ』、しめさば『ひげを剃る。そして、女子高生を拾う。』、岬鷺宮『三角の距離は限りないゼロ』などの作品がありますが、この辺りは機会を設けていずれ。

彼女のL ~嘘つきたちの攻防戦~ (ファミ通文庫)

彼女のL ~嘘つきたちの攻防戦~ (ファミ通文庫)

 
オミサワさんは次元がちがう (ファミ通文庫)

オミサワさんは次元がちがう (ファミ通文庫)

 

 

3.ライトノベルが手に入りにくくなった

 さて、ツイッターを始めて気付いたのが、書店関係者のアカウントがあって、かなり興味深いことを呟いていることでした。ライトノベルの流通という問題は、以前から関心を持っていたのですが、書店関係者のツイートや山中智省先生の『「ドラゴンマガジン」創刊物語』のように、こうした問題について理解を深める機会が得られてのが、私にとっての2018年の収穫でした。

 2018年になって個人的に困ったことが、ライトノベルが手に入りにくかったことです。私は休みの日に月1~2回アニメショップに立ち寄ってまとめ買いをし、足りない分を仕事の帰りに補充して買っています。特に現在、大量の仕事を抱えているために、休日はとても貴重。やっとの休みの日に、わくわくしながらアニメイト某店に立ち寄るとお目当ての作品が棚に並んでいないのです(涙)。

 

 2018年はこの売り切れに何度も遭いました。発売からだいたい2週間くらいの作品が売り切れになっているのです。アニメショップを利用して十ン年にもなりますが、最近つとに目立ちます。ライトノベルの売り上げは頭打ちですから、要するに、ライトノベルの流通量が減っているのでしょう

 既存レーベルでは、すでに月あたりの刊行点数を絞っているレーベルもあると聞きます。元来ライトノベルは、既存の流通システムへの依存度が高い媒体であるように思います。私たち買い手=読者にとっても、ライトノベルは岐路に立たされているのではないでしょうか

 あまり風呂敷を広げすぎると筆者の能力の範囲を超えるのでは、今回はこれくらいで。お付き合いいただきありがとうございました。

 

(2019年1月7日 一部修正)

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かくしてお祭り騒ぎは始まった ― 山中智省『『ドラゴンマガジン』創刊物語 狼煙を上げた先駆者たち』

 こんにちは。2~3月にかけて3回にわたって更新した『りゅうおうのおしごと!』についての記事が好評をいただき、先月から今月にかけてたくさんの方が記事を読んで下さったようです。ブログのアクセスも、9000PVを超えました。大変嬉しく思います。

 さて、本ブログでは、これまで話題の作品や名作を中心に紹介してきましたが、今回は少し毛色の異なる本を紹介しようと思います。この間、ライトノベル研究を精力的に進めている山中智省氏(例によって以下敬称略)が、先ごろ新しい著書を刊行しました。タイトルは『『ドラゴンマガジン』創刊物語 狼煙を上げた先駆者たち』(勉誠出版、2018年1月発売)。文芸・人文系の一般書や、文学研究や歴史学研究の専門書を取り扱っている勉誠出版から刊行されました。表紙イラストは、神坂一スレイヤーズ』シリーズのあらいずみるい

 今回は、富士見書房の刊行するドラゴンマガジン』の創刊をめぐる歴史について取り上げたこの本を書評しながら、現代日本のライトノベルの出発点について考えてみようと思います

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ライトノベル史入門 『ドラゴンマガジン』創刊物語 : 勉誠出版

1.著者のプロフィールとライトノベル研究の動向

 まず、著者である山中智省のプロフィールを確認しましょう。著者は1985年生まれで、横浜国立大学で日本近現代文学を学んで研究者になりました。かなり早い時期から、文化研究のアプローチでライトノベルについて研究をしてきた模様です。指導教員は日本の近代文学のなかの心霊イメージや催眠術、怪談を研究している一柳廣孝教授です。

 文学研究の世界は有名な作品や作家を研究するのがメインストリームで、日本近代文学では、いわゆる「自然主義文学」や「純文学」が重視される風潮が強いと聞きます。こうした風潮のなかで、軽視されがちな「大衆文学」すら通り越してライトノベルの研究を行っているわけです。オーソドックスな文学研究者と比べると、師匠ともども、どちらかと言えば毛色の変わった人物であると言えそうですね(褒め言葉)。

 

 山中が学生時代の2006年5月に、指導教員の一柳廣孝や、目白大学教授で少女小説の研究者の久米依子を中心としてライトノベル研究会が設立されました。この研究会は、『ライトノベル研究序説』(青弓社、2009年)、『ライトノベル・スタディーズ』(青弓社、2013年)を出版し、現在は文学・社会学民俗学から、情報工学建築学まで約40名のメンバーを擁するに至ります。そして、ここからライトノベル研究の新しい世代、1980年代生まれの山中智省や大橋崇行らが出てきました。彼らを中心に新たに『ライトノベル・フロントライン』(既刊3巻、青弓社、2015年~)が刊行されています。

創作と研究・批評とは、エンジンと燃料のようなものだ。/(中略)創作された作品は、それだけで作品として流通させることは難しい。作品や作家が何らかの形で「評価」されることで、その名前がより多くの読者にまで広がり、手に取ってもらえるようになる。[大橋2015:7ページ]

こうした言葉で始まる『ライトノベル・フロントライン』は、単なる作品紹介でなく、ライトノベルの歴史や社会的な可能性を踏まえて評価することを試みているブログを運営している者として、大いに共感させられました。

 

 山中智省のこれまでの研究の特徴は、ライトノベルをはじめとしたオタク向けコンテンツの言説を歴史的に分析して、文化研究カルチュラル・スタディーズ的な評価を行ってきたように私は思います。著書『ライトノベルよ、どこへいく 1980年代からゼロ年代まで』(青弓社、2010年)はその代表例で、「ライトノベル」という言葉がどのように生まれて流通してきたか、ゼロ年代においてライトノベルはどのように評価されてきたのかを論じています。つまり、ライトノベルを文化現象として取り扱うアプローチです。近年は、こうした研究手法を使うことで、出版史に関する研究業績も出しています(山中の研究業績については 山中 智省 - researchmap を参照)

 『月刊ドラゴンマガジン』の創刊を扱った『『ドラゴンマガジン』創刊物語』もまた、こうした著者の研究の延長線上にあります。それと同時に、ライトノベルの「内側の世界」、編集者・作家・読者といった当事者にスポットライトを当てた研究でもあります。この点は、本書の「あとがき」で述べられています[山中2018:231ページ]。この二つの側面が、本書の特徴と言えるのです。

2.『『ドラゴンマガジン』創刊物語』の構成と内容

(a) 本書の構成

 さて、『『ドラゴンマガジン』創刊物語』の内容を紹介してゆきましょう。全5章+「はじめに」+「おわりに」の7部構成で、前著に続いて巻末の資料編も豊富です。章立てを次に掲げましょう。

― 目次 ―

はじめに

第1章 『ドラゴンマガジン』創刊前後の状況

第2章 創刊を手がけた編集者たち

 コラム① 誌上に現れた二つのメディアミックス

第3章 創刊号の誌面を飾った作家たち

 コラム② 作家の共演が生み出した「イマジネーションの世界」

第4章 『ドラゴンマガジン』が育んできたもの

 コラム③ 読者・作家・編集者が交差する場

第5章 〝ビジュアル・エンターテインメント〟の誕生と展開

おわりに―そして「ライトノベル」へ

あとがき/参考文献一覧

過去の作品を知りたい・読みたい・入手したい人のための資料探索ガイド『ドラゴンマガジン』基本情報一覧(1988~1995年)

このうち第2~4章はインタビューに宛られていて、コラムで簡単に要点がまとめられています。インタビューで登場する人物は全員で8人に及びます。第2章では、『月刊ドラゴンマガジン』の実質的な創刊責任者の小川洋(のち富士見書房代表取締役社長)、表紙・グラビア・取材記事を担当した編集者の竹中清。第3章では、小説『風の大陸』の作者・竹河聖、『スレイヤーズ』のイラストレータあらいずみるい、マンガ『ドラゴンハーフ』の作者・見田竜介。第4章では、読者投稿ページ「ガメル連邦」の担当・加藤一、ゲーム小説『蓬莱学園』シリーズに関わった新城カズマ、創刊当時の読者でのちに小説家デビューを果たした伊藤ヒロがそれぞれ登場します。どのインタビューも興味深いもので、資料的価値もとても高いと言えるでしょう。

(b) 本書の内容

 次に本書の論旨を確認しましょう。「はじめに」では、1988年1月30日に発売された『月刊ドラゴンマガジン』が、現在のようなライトノベル雑誌でなく、浅香唯のコスプレを表紙グラビアにし、マンガ、アニメ、ゲーム、映画、模型、ジオラマ、アイドル、イラストレーションなど、多彩なジャンル/メディアで構成される「新しいタイプの若者向け雑誌」[山中2018:3ページ]として始まったことを指摘します。そのことは、『ライトノベル研究序説』の「はじめに」で一柳廣孝が指摘した、「複合的な文化現象[一柳2009:13ページ]としてのライトノベルに関わることだと言います。

 第1章「『ドラゴンマガジン』創刊前後の状況」では、1980年代半ば頃からの小説・ゲームにおけるファンタジー・ブームのなかで角川文庫・赤帯や富士見ファンタジア文庫の創刊という動きが起こり、その流れの延長線上に『月刊ドラゴンマガジン』の創刊が位置づけられると指摘します。創刊当初の同誌の特徴は、第1に文庫レーベルや新人賞と一体に展開されているところ、第2にビジュアルを重視して「夢」を実感するストーリー(=小説)を軸にマンガ、アニメ、ゲーム等々のジャンル/メディアを交えて「イマジネーションの世界」を表現するところだと言います。そして、同誌が想定していた読者は、多種多様なコンテンツを享受する「アニメやゲームで育ったメディアミックス世代[山中2018:3ページ]であったとします。

 

 先にも述べたように、第2~4章はインタビューに宛られています。第2章では、『月刊ドラゴンマガジン』が、アニメ誌『月刊ニュータイプ』(1985年~)、パソコン・ゲーム誌『コンプティーク』(1983年~)と密接な関わりを持って登場し、創刊から1年後のリニューアルで現在のような小説を中心とするメディアミックスの雑誌へと変化したと整理されます。

 第3章では、小説家とイラストレーターの意識的な協業が、インタビューと誌面の双方から確認されています。特にイラストを書くための方法論についての、あらいずみるいの発言は興味を惹きます[同上:114ページ以下]。また、見田竜介の発言は、異質なものが混じりあった創刊当初の同誌の様子をうかがわせます。

 第4章では、「読者・作家・編集者が交差する場[同上:180ページ]としての『月刊ドラゴンマガジン』の姿がインタビューを通して明らかにされます。読者投稿ページ「ガメル連邦」にせよ、『蓬莱学園』シリーズにせよ、「お祭り[同上:166ページ]のような盛り上がりがそこにあったわけです。

 

 第5章では、『月刊ドラゴンマガジン』創刊当時のより広い状況について論じています。まず、1980年代後半は「メディアミックス世代」向けの目立ったジャンルとしては、SFブームに伴う浸透と拡散(批判的な人から見れば、SFがSFでなくなってしまうと映ったことでしょう)SFとファンタジーがともにメディアミックスの波にさらされていると考えられていたといいます。

 この頃には、文庫やノベルズなどの小説の表紙にアニメやマンガなどのイラストを採用することが増えており、その代表としてアニメージュ文庫を取り上げます。また、若者の読書調査から「軽い小説」が好まれていて、コバルト文庫やハヤカワ文庫などがそれを意識していたこと、以上の動向を意識した雑誌『獅子王朝日ソノラマから刊行されていたこと(1985~92年)が指摘されています。ただし、『獅子王』はイラストを用いた文芸誌としての色彩が強く、ヴィジュアルをより突き詰めたのが『月刊ドラゴンマガジン』であったと山中は評価します。

 こうした経緯を踏まえて、『月刊ドラゴンマガジン』の3つの特徴が挙げられます。それは、①雑誌・文庫レーベル・新人賞の連携体制、②〝ビジュアル・エンターテインメント〟に適した誌面作り、③メディアミックスのための戦略誌、だといいます[同上:213ページ以下]。雑誌の系譜としては、巻頭にフルカラーの特集記事を置くという点で『アニメック』(1978~87年)と『月刊ニュータイプ』、アイドルを起用した表紙という点で『コンプティーク』、小説雑誌としてのモデルとして『獅子王』と『野生時代』(1974~96年)が参照されています。こうして、ビジュアルを活かした特集記事で読者の興味を惹き、作品・キャラクターを読者に寄り添って掘り下げることで、「メディアミックス世代」のための〝ビジュアル・エンターテインメント〟として『月刊ドラゴンマガジン』の創刊を評価することができると結論づけます。

3.本書が明らかにしたことと残された課題

(a) 本書の意義と論じ足りない点

 ここまで『『ドラゴンマガジン』創刊物語』の内容を紹介してきたことを踏まえて、いくつか指摘を行います。本書は、1988年の『月刊ドラゴンマガジン』の創刊の内実を明らかにするともに、80年代後半の出版状況を踏まえて同誌が創刊されたことの歴史的位置を評価することを試みたと言えます。また、数多くの関係者のインタビューを行って掲載したという点で、本書は資料的価値の高いものとなっています。

 ただし、インタビューで触れられていながら、深められなかった重要な論点もあるように思います。例えば、小川洋へのインタビューでは、『S-Fマガジン』(1959年~)や『奇想天外』(1974年、1976~81年、1987~90年)、『SFアドベンチャー』(1979~92年)との関係が語られています[山中2018:47-48ページ]。私の個人的な感覚としては、1980年代のSFブームから90年代の沈滞へという流れがあったと思うのですが、こうしたSFの動向と『月刊ドラゴンマガジン』の創刊がどのように交差したのかは深められず、状況としてしか触れられていない印象です。

 ただし、これはなかなか困難な指摘かもしれません。なぜなら、今日に至るまで現代日本のライトノベルはSF的な作品が相対的に少ないという特徴を抱えているからです。とはいえ素晴らしい作品は沢山あるので(注1)、論じる余地はあるように思います。実際、富士見ファンタジア文庫の1冊目は田中芳樹『灼熱の竜騎兵〈レッドホット・ドラグーン〉』(1989年)でした。その後も、森岡博之『星界の紋章』シリーズ(全3巻、ハヤカワ文庫JA、1996年)冲方丁マルドゥック・スクランブル(全3巻、ハヤカワ文庫JA、2003年)のようなライトノベルを意識した作品が出ています。また、『無責任艦長タイラー』シリーズ(全15巻、富士見ファンタジア文庫、1989~96年)の作者・吉岡平は、主人公のタイラーが『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーのアンチテーゼとして描いたことを述べています「ヤン・ウェンリーのアンチテーゼとしてのタイラー」 - Togetter

(注1)思いつくまま挙げますと、高畑京一郎タイム・リープ』(メディアワークス、1995年)、賀東招二フルメタル・パニック!』(全21巻、富士見ファンタジア文庫、1998~2011年)、鷹見一幸『でたまか』(全16巻、角川スニーカー文庫、2001~06年)、橋本紡リバーズ・エンド』(全6巻、電撃文庫、2001~04年)、三枝零一ウィザーズ・ブレイン』(既刊17巻、電撃文庫、2001年~)、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』(全4巻、電撃文庫、2001~03年)、桜坂洋All You Need Is Kill』(全1巻、集英社スーパーダッシュ文庫、2004年)、有川浩塩の街』(全1巻、電撃文庫、2004年)、竹井10日東京皇帝☆北条恋歌』(全13巻、角川スニーカー文庫、2009~14年)、川原礫アクセル・ワールド』(既刊22巻、電撃文庫、2009年~)、榎宮祐クロックワーク・プラネット』(既刊4巻、講談社ラノベ文庫、2013年~)とかとか……。

 

 伊藤ヒロのインタビューでもいくつか興味深い点がありました。『コンプティーク』に掲載されていたリプレイ版『ロードス島戦記』(1986~88年)に触れている箇所があります[同上:171ページ]富士見書房も富士見ドラゴンブックを1985年から出していて、RPGリプレイなどのゲームものがライトノベルに果たした役割は無視できません。ドラゴンブックの「ドラゴン」が『月刊ドラゴンマガジン』へと引き継がれているという事実も含めて、どのように位置づけるのかを論じていないのは心残りです。

 同じく、伊藤ヒロのインタビューのなかで、富士見美少女文庫について触れているのも重要です[同上:173ページ]。実は著者の山中智省は、ライトノベル研究会の「ラノベ史探訪」コーナーや、学会論文で美少女文庫について論じている模様です(山中「〈富士見文庫〉検証 : ライトノベルジュブナイルポルノの"源流"をめぐって」『コンテンツ文化史研究』10・11号、2017年3月)。この論文が入手できていないので何とも言えませんが、せっかく著者のご研究があるにもかかわらず、富士見美少女文庫について言及が事実上ないのも気がかりです。

(b) 今後に残された課題

 個別の深められなかった論点のほかにも、本書が射程に収めることができなかった、今後に残された課題もあります。ここでは3点指摘しておきましょう。

 1点目は、「はじめに」でも触れられている『ザ・スニーカー』(1993~2011年)や『電撃hp』(1998~2007年)など、他のライトノベル雑誌との比較です。小川洋は『ザ・スニーカー』は「文芸の流れを汲んでいる」と発言していて[同上:64ページ]、非常に納得させられました。著者はすでにスニーカー文庫などの検討もしており[山中2016b]、今後の研究の進展を期待しています。

 2点目は、内在的な課題です。本書でも触れられているように、1989年3月号で『月刊ドラゴンマガジン』はリニューアルをするのですが、そのリニューアルの経緯について本書は明らかにしていません。文化現象だけでなく、当事者の立場からもライトノベルについて明らかにするという本書の立場を踏まえるならば、この課題が明らかにされてないのは残念です。(かなり難しい課題だとは思いますけれども。)

 

 3点目は、「おわりに」で述べられている著者のライトノベルの「再定義」についてです。これまでのライトノベルの定義は、「アニメ・マンガ風のイラストが用いられている」のような読者目線の外的な基準や、「一人称目線やセリフの多い小説」のような内的な基準が用いられてきました。もっとも穏当な定義としては、『ライトノベル完全読本』(日経BP、2006年)の「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若者層向けの小説」が知られています。

 これに対して著者は、「はじめに」で触れている「複合的な文化現象」という観点に立ちながら、出版側の目線も重視する本書の議論を踏まえてライトノベルの再定義を試みています。その部分を引用しましょう。

マンガ・アニメ風のキャラクターイラストをはじめとした多種多様なビジュアルとのコラボレーションによって、ビジュアル文化にふれて育った中・高校生を中心とする若年層を小説(活字)の世界に誘い、彼らのイマジネーションを喚起して小説やその物語の楽しさを知ってもらうことを目的に誕生した、ライト感覚のエンターテインメント小説。[山中2018:229ページ 丸数字は筆者による]

この説明が、上の定義をより具体的なものにしていることが分かると思います。重要なのは、①単にイラストに限らずに「多種多様なビジュアルとのコラボレーション」として把握している点、②読者としての「若者」を「ビジュアル文化にふれて育った」人々として把握している点、③制作側の目的意識(=マーケティング戦略)を踏まえている点がです。

 

 ただし、この「再定義」についても若干の問題があります。一つは、1980年代(後半)以降に存在した「ビジュアル文化」とは何かという問題です。この用語自体が耳慣れない言葉ですし、「ポピュラーカルチャー」や「おたく文化」などと何が同じで何が違うのかを本書は論じていないように思います。

 もう一つは、定義の核心部分である④「ライト感覚のエンターテインメント小説」の意味内容がはっきりしないという問題です。例えば、1980年代の若者の読書動向が、「赤川次郎などをはじめとする「軽い作品」への傾倒」に特徴づけられることは本書でも触れられていますが[同上:197ページ]、その「軽い作品」を制作側がどのように考えていたかを明らかにしなければ、「複合的な文化現象」でなく単に「文化表象」を論じただけに留まってしまうのではないでしょうか。この点は、研究史との関係で言えば、大塚英志東浩紀のようなキャラクターに注目したライトノベル定義(注2)との関係から明らかにされるべきではなかったかと思います。

(注2)大塚英志『キャラクター小説の作り方』(『ザ・スニーカー』連載、講談社現代新書1646、2003年、のち角川文庫・海星社新書)、東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』(講談社現代新書1883、2007年3月発売)

(c) 「お祭り」というキーワード

 ここまで、山中智省『『ドラゴンマガジン』創刊物語』について、あれこれと論評してみました。特に最後に論じた「残された課題」は本書の議論の範囲を超えるもので、これからの研究や評論を通じて明らかにされるものだと思います。繰り返しますが、全体としてみれば、本書は『月刊ドラゴンマガジン』創刊の経緯とそれを取り巻く文化状況を明らかにした意義ある研究であると言えると感じています。

 本書を通読して私がとても共感したのが、「お祭り」というキーワードでした。これは、小川洋インタビューなかで「(『月刊ドラゴンマガジン』の創刊は)ある意味では祭りの狼煙だったのではないかと思います」と語っていて[同上:63ページ]、筆者は「おわりに」でこの発言を引き受けて、次のように書いています。

この「祭りの狼煙」という小川の言葉に象徴されるように、本書で見てきた『ドラゴンマガジン』の創刊から躍進までの軌跡はまさしく、若年層向けエンターテインメント小説を舞台に編集者、作家、読者の熱意と情熱が巻き起こした「祭り」さながらの様相を呈していた。そしてこの「祭り」の盛況ぶりはライトノベルの立ち上がりを周囲に示すとともに、源流となった〝ビジュアルエンターテインメント〟を拡散させる契機をも生み出していったのである。[同上:228ページ]

こうした著者の議論は、本書のサブタイトルである「狼煙を上げた先駆者たち」へと引き継がれています。「お祭り」という言葉は新城カズマのインタビューでも出てきています。

現在のライトノベルを生み出した巨大な渦巻きというか、苗床みたいなものがあって、その一端が『ドラゴンマガジン』であり、富士見ファンタジア文庫であり、『スレイヤーズ!』だったかと。(中略)自分たちが面白がっていたというのが、たぶん一番正しい。それはお祭りと同じで、結局すぐ終わるかもしれないし、ずっと続くかもしれない。先は分からないけれど、取りあえず今が面白ければいいんだ、あるいは面白くしようよ、みたいなものが、『ドラゴンマガジン』や『蓬莱学園』にはあったのだと思います。[同上:166ページ]

 

 なぜ私が「お祭り」という言葉に共感したかというと、それが私自身の『月刊ドラゴンマガジン』経験でもあるからです。A4変判のあのカラーページを開いた時のドキドキ感、秋田禎信あざの耕平賀東招二築地俊彦ら短編小説の名手たち、「小説創るぜ!」、「皇龍杯」、「狗牙絶ちの劔」などの読者参加企画、MEE『はいぱーぽりす』やきゆづきさとこ『ろーぷれぐるぐる』などのマンガ作品、「仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック♥」(2004~06年放送)や「富士見ティーンエイジファンクラブ」(2006~08年)といったラジオ番組など、数々の思い出があります。

 以前にも、「ライトノベルにおけるアンソロジーの位置とその歴史」(2017年12月番外号)のなかで、富士見書房から刊行されたアンソロジー作品が、「お祭り騒ぎ」を楽しむものであったと指摘しました。また、その後、2000年代末から10年代初頭にかけて「お祭り」の雰囲気が変化したように感じています。このように、本書がひろい上げた「お祭り」というキーワードは、筆者である私自身の実感でもあるのです。

おわりに

 以上、山中智省『『ドラゴンマガジン』創刊物語』について取り上げました。紹介と論評をあれこれしましたが、とにもかくにも、本書は「ライトノベル史入門」の名に恥じない、大変に興味深い内容でした。前著『ライトノベルよ、どこへいく』は小さい活字のいかにも専門書という感じでしたが、今回は特に図版が見やすくて好感を持ちました。第一線の研究者が、多くの読者を想定した一般書を出したことは、とても喜ばしいことだと思います。また、あらいずみるいの素敵なカバーイラストも必見です。

 

 1980年代後半から90年代初頭という、現代日本のライトノベルに直接繋がる時代を本書は取り上げていますが、この時代は日本の「おたく文化」のなかでも特筆すべき時代であったように思います。この時代の研究は、今後進められてゆくことになるのでしょうが、なかでも1980年代のOVAについて語っておられた吉田正高氏(東北芸術工科大学教授、コンテンツ文化史学会会長)が3月31日に急逝されたことは、とても残念でなりません。この場を借りてお悔やみ申し上げる次第です。

 私はコンテンツ文化史学会の会員でもなければ、いわゆる「おたく文化」の研究者でもありませんが、精力的な活動を続けておられた吉田氏を尊敬しておりました。これから、山中智省をはじめとした若い研究者の活躍で、この喪失が乗り越えられることを望むばかりです。湿っぽくなりましたが、ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 

【参考文献】

一柳廣孝久米依子ライトノベル研究序説』(青弓社、2009年4月発売)

大橋崇行「創刊の辞」(大橋崇行・山中智省『ライトノベル・フロントライン1』所収、青弓社、2015年10月発売)

・山中智省『ライトノベルよ、どこへいく 1980年代からゼロ年代まで』(青弓社、2010年9月発売)

・同上「専門レーベルの誕生――「角川文庫・青帯」から「スニーカー文庫」へ」(大橋崇行・山中智省『ライトノベル・フロントライン2』所収、青弓社、2016年5月発売)

・同上「〈ライトノベル雑誌〉研究序説」(大橋崇行・山中智省『ライトノベル・フロントライン3』所収、青弓社、2016年12月発売)

・同上『『ドラゴンマガジン』創刊物語 狼煙を上げた先駆者たち』(勉誠出版、2018年1月発売)

 

ライトノベル史入門  『ドラゴンマガジン』創刊物語―狼煙を上げた先駆者たち
 
ライトノベルよ、どこへいく―一九八〇年代からゼロ年代まで

ライトノベルよ、どこへいく―一九八〇年代からゼロ年代まで