現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

2010年代を代表するライトノベルとして ― 今井楓人『救世主の命題』再論

 皆さんこんにちは。昨年末のコミックマーケット97では、緋悠梨さんと夏鎖芽羽さんが企画されたラノベ読み合同誌 2010年代推し作品レビュー集』に寄稿しました。ここで私は今井楓人『救世主の命題〈テーゼ〉』全3巻(MF文庫J、2013~14年)を紹介しました。この作品は、以前3回にわたって2万2000字という長大なレビューを書いた、私にとって深い思い入れのあるオススメの作品です。

 今回の合同誌で「2010年代のライトノベル」として取り上げた際に、改めて『救世主の命題』を再読してレビューを書きました。すると不思議なものです。以前にあれほど論じたのに、改めて色々な思いがこみ上げてくるのです。だから、もう一度この作品について語ろうと思います。よろしくお付き合い下さい。

―目次― 

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救世主の命題(テーゼ) | MF文庫J オフィシャルウェブサイト

1.2010年代を代表する作家としての野村美月

  冬コミの『ラノベ読み合同誌』では、計38人が寄稿したのですが、ある作家さんに人気が集中しました。なんと私を含めた5人が野村美月さんの作品を推したのです。並居るラノベ読みを集めたなかで、企画者さんたちも意外だったようです(緋悠梨さんの「あとがき」参照)。私自身も大いに驚きました。

 例えば、『このライトノベルがすごい!2020』(宝島社)では、2010年代のランキングを掲載しているのですが、公開された上位50位には野村美月の作品が一つも入っていませんでした。2016年9月以降、単行本を刊行していないことが響いたものと思われます(注1)。けれども、多くのラノベ読みは忘れていなかったのです。野村美月のあのステキな作品の数々を!

(注1)『このライトノベルがすごい!』のランキングとしては、野村美月作品は『”文学少女”』シリーズが2009年に1位にランクインしており、最終巻が刊行された2011年には6位にランクインしています。

 

 以前このブログで、野村美月のことを「常に新しい機軸に挑戦し続けてきた実力のある作家」と評しました(「ヒストリカル・ファンタジーへの挑戦」3-(a))。文学への深い愛情に根ざした温かな文体、ひたむきで心打たれる登場人物たち、終盤へ向かってエモーショナルに盛り上がる構成、合唱・野球・演劇といった題材の巧みさ、女性主人公・男の娘・ヒストリカルファンタジーといった新しい要素の導入などなど、多くの読者を惹きつけてやまない作家です。

 2018年8月には、野村美月は自身のツイッターで、別名義でも活動していたことを明らかにしました補足参照)。ライトノベルでは今井楓人『救世主の命題』を刊行し、アダルトゲームでは村中志帆として数作品の脚本を書いていたというのです。改めて、野村美月の仕事の幅の広さと、いずれもステキな作品を世に送り出していたことに驚いたものです。私も今井楓人の正体をゲーム業界の関係者ではないかと推測していましたが(「終わってしまった物語を想像する」6)、どうやらある程度事実をついていたようです。

 考えてみれば、現代日本ライトノベルがゲーム業界と一定の関係を持っていたことは間違いありません。ゲーム業界出身の作家は数多くいますし、逆にライトノベルの作家としてデビューしてゲームの仕事を手掛けた人も数多くいると見られます。(しばしば別名義で活動されているので、正確な実態は分からないのですが。)また、作品の内容でも、ゲームの影響を受けた作品は数多くあると言えるでしょう。

 

 このように、作品の圧倒的な人気だけでなく、コンテンツ産業におけるライトノベルの位置という点でも、野村美月は2010年代のライトノベルを代表する作家であると言って間違いないでしょう。『ラノベ読み合同誌』でも、さまざまな角度から野村美月の作品が語られています。電子書籍版もありますので、ぜひご覧になってみて下さい

 

2.美少女ゲームに対する高い批評性

 それでは、改めて野村美月=今井楓人『救世主の命題』を読み直してみましょう。本作の舞台は、春が遅れて訪れる北国の山に囲まれた町。人間不信で、オカルトを愛する根暗な高校生の主人公が、突如現れた謎の美少女に5人の女性と恋をしなければ世界が滅びると告げられるところから物語は始まります。

 5人の美少女を「攻略」するという本作の設定は、一見すると美少女ゲーム的なストーリー展開をライトノベルに持ち込んだ、ありふれた「ハーレムもの」にも映ります。ところが、実際のストーリー展開を追うと、本作は二つの点で一般的な「ハーレムもの」とは決定的に異なることに気付きます。

 

 一つ目は、「モテ」という願望の充足より、痛みを通して少しずつ主人公が成長する点です。主人公の永野歩は、暗く淀んだ人格と感情を抱え、うじうじとしていて、ゆっくりとしか成長しない人物です。彼の成長と「モテ」は直結しておらず、むしろ自分やヒロインたちをめぐる人間関係の痛みを通して、少しずつ成長していきます。そんな主人公の姿にやきもきさせられながら、温かい気持ちを与えてくれるところに、『救世主の命題』の魅力があるのです。

 二つ目は、美少女ゲーム的なストーリー展開をライトノベルへと持ち込む際の困難に挑戦している点です。美少女ゲームでは、それぞれのヒロインに対して複数のルート=物語が設定されています。ところが、これをアニメ化・ノベル化する際には、一本の物語にしなければなりません。この場合、メインヒロインの物語を軸にして、他のヒロインのエピソードを絡めるというパターンが多いでしょう。これに対して『救世主の命題』では、一人のヒロインの「攻略」ごとに魔法が発動して関係がリセットされるという仕掛けを配置することで、複数のヒロインを「攻略」しながら一本の物語として破綻なく成立させることに成功しているのです(注2)

(注2)これとは異なる形で、すべてのヒロインのルートを消化した例もあります。アニメ版『CLANNAD』(石原立也監督、京都アニメーション、2007~08年放送)は、5人のヒロインのルートを原作に忠実に統合して注目されました。その際、時系列の整理と一部オリジナルな展開が用意されましたが、第1期18話「逆転の秘策」における藤林姉妹と智代が朋也を諦めるシーンは「神回」として有名です。また、アニメ版『ヨスガノソラ』(高橋丈夫監督、feel. 、2010年放送)では、ゲーム版の分岐ルートをそのまま再現するという荒業をやってのけました。

 

 さらに重要なのは、いま指摘した二つの点が相互に関わり合ってストーリーが展開していることです。主人公が感じる痛みとは、ヒロインと築きあげた関係が魔法によってリセットされてしまうことです。両想いになりながらも、誰とも最後まで結ばれることがない。それでも、ヒロインを救うには、忘れられながら世界を救うしかない……。「だから、僕は世界を救おう」――主人公はそう決意するのです[今井:1巻249ページ]

 こうしたストーリー展開のなかで、主人公とヒロインの意思と願望が高まりあい、そして愛の記憶を失うシーンは涙なくして読むことはできません。ただし、それは泣きゲーともやや異なるものです。泣きゲーの基本フォーマットは日常と不幸の組み合わせによる悲劇性の強調にあると言われています[涼元2006]。これに対して『救世主の命題』では、主人公はヒロインとの関係の喪失に痛みを感じても、単なる悲劇とは捉えていません。なぜなら、この痛みこそが、主人公を少しずつですが成長させるからです。主人公が一人ひとりのヒロインたちと関係を築いていくことを通じて、運命の恋愛は一度きりなのではなく、長い人生のなかの大切な一つの〈物語〉なのだと作者が優しく語りかけているように思います。

 

 このように、本作は美少女ゲーム的な設定を用いながら、美少女ゲームを乗り越えるテーマとストーリー展開を用意しています。すなわち、願望の充足ではなく痛みを通じた主人公の成長をテーマとし、ヒロインたちとの関係の構築と喪失というストーリー展開です。まさに、このことによって今井楓人『救世主の命題』は、美少女ゲームに対する高い批評性を持った作品に仕上がっているのです(注3)。そして、以上に述べてきた物語が紡ぐ温かな魅力と、批評的なテーマ・ストーリー展開によって、今井楓人『救世主の命題』は、2010年代を代表するライトノベルとして評価できるわけです。

(注3)加えて指摘すると、主人公とヒロインの関係はリセットされながら、主人公には記憶が残っているというのも批評的と言えるでしょう。ゲームであれば主人公自身の記憶もなかったことになりますが、プレイヤーは別ルートの物語を覚えています。つまり、『救世主の命題』の主人公は美少女ゲームのプレイヤーと同じポジションにいるわけです。ところが、主人公の性格は読み手に対して容易に同一化を許しません。主人公とプレイヤー=読み手の同一化とその困難は、美少女ゲーム的な設定に対して美少女ゲーム的な解釈を阻もうとする要素を本作が含んでいることを意味しているのです。

 

3.6番目のヒロイン・ルーメをめぐって

 今井楓人『救世主の命題』は、3巻目が刊行されて打ち切りとなっていまいました。この第3巻の「あとがき」で作者は、この作品には当初作中で示された5人のヒロインに加えて、主人公のサポート役であったルーメが6番目のヒロインであったことを明かしています[今井あとがき:3巻254ページ]

 考えてみれば、確かにルーメは特別扱いでした。第1巻のプロローグでは、未来からやってきたルーメが、未来の主人公に対して特別な感情を抱いていたことが描かれています。彼女はこの作品における魔法を体現する登場人物であり、一暗い感情を抱え続ける主人公を一貫して支え続けます。第2巻にいたっては、その巻のヒロインの芹乃を差し置いて表紙を飾ってさえいます。それでは、ルーメは本作のストーリー展開において、どのような位置づけであったのでしょうか。

 

 以前書いたブログ記事では、5人のヒロイン+ルーメの位置づけについて考察を行ないました。痛みを通じた主人公の成長をテーマとし、ヒロインたちとの関係の構築と喪失というストーリー展開のなかで、それぞれのヒロインは異なる役割を与えられています。

 まず、1番目のヒロイン・春坂遥菜(=“憧憬”のテーゼ)とは、現実よりも理想が先行する地に足がつかない恋愛をします。2番目のヒロイン・堀井芹乃(=“敵対”のテーゼ)とは、お互いのズレに向き合いながらの試行錯誤の恋愛をします。3番目のヒロイン・三田ひより(=“聖域”のテーゼ)とは、理想や思考錯誤の恋愛でなく、誤解や勘違いからの出発でもない、等身大の恋愛をします。

 記事では、書かれることのなかった残り3人のヒロインについても想像をめぐらせました。4番目のヒロイン・春坂千織(=“戯れ”のテーゼ)とは、年上との格好を付けようにも付けられないような、背伸びをする恋愛をするのではないかと思います。5番目のヒロイン・柏木心(=“傾国”のテーゼ)とは、相手の事情をくみ取った過ちと別れを受け入れる恋愛をするのではないかと思います。

 

 いよいよ、ルーメ(=“光”のテーゼ)の問題です。彼女の役割は、本作の結末と関わる部分なので想像がたいへん難しくなります。彼女は未来(=魔法の力)と過去(=愛の記憶)をつなぐ存在であることに私は注目し、そこから、「光」を介して未来と過去の対立を克服し、主人公がコンプレックスを乗りこえて現在を獲得するというハッピーエンドの物語を想像しました(「終わってしまった物語を想像する」7-(c))。

 けれども、今回『救世主の命題』を改めて読み返したとき、また別の結末についての想像が浮かびました。それは、主人公が魔法の力を獲得しつつも、ルーメとの関係を喪失してしまうという結末です。なぜなら、ルーメは亡びようとする未来に戻って、彼女との再会を待ち望んでいる[今井:1巻12ページ]未来の主人公に再会しなければならないからです。ルーメが消え去ることによって、主人公にとって特別な存在となるということです。この想像は、本作のテーマとストーリー展開に即したものだと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

 

おわりに

 ここまで、野村美月=今井楓人『救世主の命題』について、改めて考えてみました。本作は、児童文学をこよなく愛する彼女の温かな文体が、ストーリーと登場人物を優しく魅力的に描いた、私がもっとも愛する2010年代を代表するライトノベルです。まだ未読だという方は、ぜひ読んでみてください!

 本作が3巻打ち切りとなってしまったことは、返す返すも残念なことです。けれども、繰り返し読むことのできる名作であることは間違いありません。とてもステキな作品を送り出して下さった今井楓人=野村美月先生には、ただただ感謝するばかりです

 すでに記事を書いていたにもかかわらず新しい記事を書いたことは、屋上屋を架しただけかもしれません。けれども、私にとって『救世主の命題』は繰り返し語らなければならない作品なのだと思いました。そして、『救世主の命題』について再論きっかけを与えてくれた夏鎖芽羽さんと緋悠梨さんにも、この場をお借りして感謝申し上げます。

 

【参考文献】

・今井楓人『救世主の命題』(MF文庫J、2013年6月発売)

・今井楓人『救世主の命題2』(MF文庫J、2013年10月発売)

・今井楓人『救世主の命題3』(MF文庫J、2014年11月発売)

涼元悠一ノベルゲームのシナリオ作成技法』(秀和システム、2006年)

・緋悠梨・夏鎖芽羽編『ラノベ読み合同誌 2010年代推し作品レビュー集』(月をみつめる退屈な猫、2019年12月、コミックマーケット97同人誌)

・『このライトノベルがすごい!2020』(宝島社、2019年12月)

【Special Thanks】

・緋悠梨さん (HP: あるいはラノベを読む緋色 Twitter: @ge73hy

・夏鎖芽羽さん(HP: 本達は荒野に眠る Twitter: @natusa_meu

【過去記事】

b-sekidate.hatenablog.jp

 

(補足)野村美月=今井楓人について

  すでにツイッター過去の記事で触れているのですが、改めて野村美月先生が今井楓人名義で活動されていたことを明らかにしたツイートを紹介します。資料的価値があると判断し引用いたします。

野村美月 @Haruno_Soraha
別名義で書かせていただいたご本☺️🙏 先日、編集さんと過去作のお話をしていて、その流れで検索をした際、それまで見ていなかった感想を目にして胸がいっぱいになりました。今さらですがありがとうございます。こちらの3巻が自分でもすごく好きで、表紙のこの子を書けて良かったなと思っています。 pic.twitter.com/Efu07NmO9i
2018/08/17 22:38

https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/1030448909796044801

あとがきに書いた「✖︎✖︎はダメ!」と言われた企画は、これまた別名義で書いていたゲームで提出したものでした。ゲームのお仕事は最初から最後まで一気に書けるのが気持ちよくて大好きでした。こちら↓のお話は特に思い入れがあります。 pic.twitter.com/D4EESHGa3P

2018/08/17 22:39

https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/1030448923196895233