現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

ヒストリカル・ファンタジーへの挑戦 ― 野村美月『アルジャン・カレール』

 こんにちは。7月の3連投で力尽きて気が付けば9月になっていました。それでも嬉しいのは、4月以降のPV数が5ヶ月連続で100件を超えたばかりか、7月・8月と200件を超えて、累計2500PVを達成したことです。毎度毎度、読むのが大変な長文を投稿している割に、読んで下さる方がいらっしゃるのは大変嬉しいことです。

 

 さて、今度こそ新刊を取り上げようと思ったのですが、今回ご用意した作品は、野村美月『アルジャン・カレール~革命の英雄、或いは女王の菓子職人~』上下巻(ファミ通文庫1365・1366、2014年10月発売)です。――あれ、もうそんなに経ってたの?! すみません、3年前のものでした。

 野村美月は私の大好きなライトノベル作家の一人で、この一年ほど新作を出していないのが気がかりです。流行すたりとは関係なく、常に彼女にしか書けないような独自の作品を出し続けている実力派作家が取り組んだヒストリカル・ファンタジーという耳慣れないジャンルの作品について、今回は語ってみたいと思います。

―目次―

f:id:b_sekidate:20170904190312j:plain

ファミ通文庫◆FB Online◆ | 2014年10月の新刊

1.実在した伝説の菓子職人をモデルとする物語

 最初にこの作品のあらすじを確認しておきましょう。舞台は聖歴1812年のフロリア国の首都パリゼ。かつて国防軍の英雄として名を馳せたアルジャン・カレールは、かつての革命の混乱の治まった町で菓子職人として働いています。彼は町にパティスリーを構えながら、マリー=ロクサーヌ女王に仕える菓子職人でもある人物です。この作品の語り部であるオーギュスト・ラ・グリューは駆け出しの劇作家で、ある日町のパティスリーでこれまで知らなかったような菓子とアルジャンに出会うところから物語は始まります。

 さて、「あとがき」でも述べられているように、アルジャン・カレールとは実在した伝説の菓子職人アントナン・カレーム(Marie-Antoine Carême, 1784-1833)のことであり、したがって舞台も19世紀前半のフランスのパリがモデルとなっています[野村あとがき:上巻249ページ]。貧困家庭に生まれながら、革命の混乱を経て政治家や貴族に使える料理人にまで出世し、「歴史を動かすデザート」を作ったと評される天才的菓子職人という姿はそのまま反映されています。一方、ロクサーヌ女王のモデルについてははっきりとは書かれていません。しかし、下巻で行われた国際会議でアルジャンを用いて交渉を有利に進めたエピソードから、フランスの政治家タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgord, 1754-1838)がモデルと思われます。この他、軍事の天才であるバルトレオン将軍は、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)がモデルです。

 

 作中のアルジャンは、目の鋭い寡黙で謎に満ちた男ですが、時折見せる優しさが周囲の人々の心を掴みます。とはいえ、無口で淡々とした人物を主人公にしているため、そのままでは物語が盛り上がらないことから、語り部と仲介者を用意しています。まず、語り部としては、お菓子の大好きな貴族の三男坊であるオーギュスト(特定のモデルはいないようですが、デュマを意識している気がします)。次にこの二人を結ぶ役割を担う役として、アルジャンの店で働く弟子のニノン・エーメが配されています(こちらはプリュムレがモデルでしょうか)

 ストーリー展開は、オーギュストとアルジャンとの交流しさまざまな人と関わってゆくなかで、アルジャンの過去の秘密やロクサーヌ女王との関係が明らかになってゆきます。オーギュストが関わる人々が次々と登場し、序盤から中盤にかけてパリゼの町を舞台にして、物語を明るく賑やかな、時に切ないどたばたコメディーが進みます。これに対して、終盤ではウィーン会議をモデルとしたクライスラー会議でのアルジャンの活躍が描かれます。各国の政治的駆け引きのなかで、知性と意志の優れた若き女王と、彼女と強い信頼で結ばれた寡黙な菓子職人の緊張感に満ちた政治劇が進みます

 

2.ヒストリカル・ファンタジーとは何か

 ここまで確認してきたように、野村美月『アルジャン・カレール』は、実際の人物と歴史をモデルとした歴史小説的な性格を持ちます。上巻の裏表紙カバーにある「あらすじ」には「後に“菓聖”と呼ばれることになる青年の伝説を描く、ヒストリカル・ファンタジー」とあり、初版の帯にも「菓子が彩る架空歴史物語〈ヒストリカル・ファンタジー〉」とルビを振って書かれています。

 このヒストリカル・ファンタジーという、ちょっと耳慣れない言葉は何でしょうか。日本語でインターネット検索をかけても出てこない言葉です。ですが、英語でhistorical fantasy と検索すると結構出てくるので、向こうでは比較的知られたジャンルの名称であるようです。試みに英語版ウィキペディアを見てみましょう。

ヒストリカル・ファンタジーとは、物語に幻想的な要素(魔法など)を取り入れた歴史フィクションのファンタジーとジャンルのカテゴリである。ファンタジーの他のサブジャンルとの間には多く重なる部分があり、アーサー王もの、ケルトもの、ダークエイジ(中世)ものなどに分類されるものは、ヒストリカル・ファンタジーに簡単に配置することができる。(以下略)[histotical fantasy、英語版wikipedia

 

 こうした説明から、おおよそ歴史小説+ファンタジーの小説ジャンルであることが判ります。ただし、日本語でいう「歴史小説」とは、より厳密に言うなら、実際に起こった歴史を描くものですが(代表的なのが山岡壮八『徳川家康』)ヒストリカル・ファンタジーはあくまでフィクションです。むしろ、時代設定を借りて架空の物語を描く「時代小説」の語の方が近い意味を持っているように思えます。ただし、「時代小説」という言葉は主に日本だけで用いられている独特の概念であるようです。

 先に引用した英語版ウィキペディアによると、以下の4つのパターンがあるようです。①魔法や神話の生き物などは一般には知られていない世界で、さまざまな歴史的事件の知られざる裏側をなしているパターン。②パターン①において歴史的事件が実際とは異なる結果となって、過去および現在が改変されるパターン。③他のファンタジーが世界設定を仮構するのに対し、実在の場所と時代を世界設定に用いるパターン。④実際の歴史に似ている架空の歴史を扱うパターン。また、補足としてスチームパンクと重なる側面があることも指摘されています[同上、英語版wikipedia。ということは、野村美月『アルジャン・カレール』は第4のパターンということになりそうですね。

 

 以上の説明を踏まえたとき、現代日本ライトノベルではヒストリカル・ファンタジーとされる作品は少ないようにも思えます。私の勉強不足だったら情けないのですが、ホントに思いつきません。バトル・ファンタジーや戦記ファンタジーはたくさんあり、そのなかでも、春日みかげ織田信奈の野望』既刊22巻(GA文庫富士見ファンタジア文庫、2009年~)は主人公が現代世界から飛ばされる異世界転生ものですが、ヒストリカル・ファンタジーと言えなくもないでしょう。あるいは、川口士魔弾の王と戦姫〈ヴァナディース〉』既刊17巻(MF文庫J、2011年4月~)は中世ヨーロッパをそれなりには意識していますが、それほどこだわりがあるようには思えません。

 しかし、1980~90年代には中国ものや戦記ファンタジーが得意な田中芳樹がヒットしていました(個人的には『マヴァール年代記』角川ノベルズ、1988~89年が秀作だと思います)女性向けの作品に関して言えば、小野不由美十二国記』(講談社→新潮社、1994年~)や雪乃紗衣彩雲国物語』全22巻(角川ビーンズ文庫、2003年10月~11年7月)、あるいは結城光流少年陰陽師』既刊51巻(角川ビーンズ文庫、2002年~)も有名でしょう。男性向けの数少ない作品としては、陰陽師ものの秀作である渡瀬草一郎陰陽ノ京』全5巻(電撃文庫、2001年2月~2007年3月)、時代劇+魔法+怪異譚という異色の組み合わせを行った田名部宗司幕末魔法士』全3巻(電撃文庫、2010年2月~2011年8月)があります。また、忘れてはならないのは、中世ヨーロッパ経済史を下敷きにした支倉凍砂狼と香辛料』既刊19巻(電撃文庫、2006年2月~)でしょう。こちらは専門家からの評価も高いと聞きます。他のヒストリカル・ファンタジーと違って政治的な事件が絡まない分、ストーリー展開の自由度も高いのではないでしょうか。

 

 こうして見ると、現代日本ライトノベルでは、ヒストリカル・ファンタジーは男性よりも女性の方に強く支持されていることが判ります。また、男性向けでも、上に示した渡瀬総一郎や支倉凍砂は女性読者が多い作家ですし、田名部宗司幕末魔法士』は女性が主人公の作品です。非常に気になる問題ですが、これを論じる材料を持ちませんので、皆さんのご意見も聞いてみたいところです。

 他方で、ヒストリカル・ファンタジーがあまり出回らない理由は、それなりに推測できます。第1に、歴史的過去を題材とすることで、作者と読者のあいだで歴史についての知識や認識が共有されなければならないという点です。これは作者にとっても、読者にとっても大きな負担でしょう。なぜなら、作者は歴史について膨大な調査が必要で、刊行スピードが速いライトノベルではなかなか骨が折れることだからです。また、読者も必ずしも前提となる知識や認識を共有しているとは限らず、難しいと読者を選んでしまいますし、説明が多いと文章がくどくなってしまいます。第2に、読者が歴史についての知識や認識を知っていたら知っていたで、作品上の歴史の動きがある程度予期されてしまう点です。先の流れが分かる小説は、なかなか苦しいものがあります。

 そして、何より第3に、ライトノベルのキャラクター小説としての性格に由来する問題です。キャラクター小説は何よりもキャラクターが命ですから、世界設定にキャラクターが縛られるよりも、キャラクターを引き立てる舞台として世界設定を行った方がよいことになります。ヒストリカル・ファンタジーというジャンルそのものが、ライトノベルと相性が悪いとしたらこの点は決定的でしょう。

 

3.野村美月の挑戦

 このように考えてみると、『アルジャン・カレール』は2つの困難に挑んだ作品だということがお分かりになるでしょう。つまり、ヒストリカル・ファンタジーという困難と、無口で淡々とした主人公という困難です。ベテラン作家である野村美月は、当然ことのことを自覚していたでしょうし、だからこそ挑戦の意義は大きかったと私は考えます。

(a) 挑戦し続ける作家として

 そもそも、野村美月は常に新しい機軸に挑戦し続けてきた実力のある作家でした。2001年に第3回ファミ通エンタテイメント大賞の小説部門最優秀賞を受賞した『赤城山卓球場に歌声は響く』シリーズ全4巻(以下いずれもファミ通文庫、2002年2月~03年6月)は合唱団をメインに据えた非常に珍しい作品ですし、並行して刊行された『天使のベースボール』全2巻(2002年4月~03年7月)も、これまた野球をテーマにした珍しい作品です。コメディ作品としては『Bad! Daddy』全4巻(2003年10月~04年7月)があります。主人公の女の子が正義の味方で、パパが悪の総帥なのですが、パパは娘を溺愛していて必殺技は「パパパンチ!」。次に出したのが、『うさ恋。』シリーズ全5巻(2004年12月~05年11月)で、こちらは前作とは真逆の純愛ストーリです。

 以下、代表作である文学ミステリの『“文学少女”』シリーズ全16巻(2006年5月~11年4月)、恋愛ミステリの『ヒカルが地球にいたころ……』シリーズ全10巻(2011年5月~2014年4月)、教師もの+ファンタジー『ドレスな僕がやんごとなき方々の家庭教師様な件』全8巻(2012年2月~15年9月)、吸血鬼+演劇の『吸血鬼になったキミは永遠の愛をはじめる』全6巻(2014年5月~16年2月)など、どれも他の作家には書けないようなオリジナリティある素晴らしい作品が並んでいます。

 

 また、読書家・勉強家としても知られ、巻末の参考文献のリストはとても勉強になります。今回、『アルジャン・カレール』の巻末に掲げられている参考文献は実に13冊を数え、実際にはもっと多くを読んだうえで作品を作っていることでしょう。このなかでも、イアン・ケリー『宮廷料理人アントナン・カレーム』(村上彩訳、ランダムハウス、2005年)と池上俊一『お菓子でたどるフランス史』(岩波ジュニア新書757、2013年)は特に本書と併せて読むことをお勧めします。

 野村美月ツイッターを見ると、とにかくお菓子の話が多いのに気付きます。その意味で、本作が作者の趣味が大いに入った作品であることは間違いなさそうです。もちろん、フィクションですからお菓子に関するエピソードには虚実が入り交じっています。実在のアントナン・カレームは、クリーム絞り器の改良や立体的なピエス・モンテの発明を行っていますが、エクレアを初めて作った人物ではありません。その他、作者自身が述べているように、アルジャンの修業期間が短すぎるという矛盾もあります。同じ箇所で作者は、普段物語を作るときは、真実8:嘘2の配分で書くが、本作では真実2:嘘8の配分で書いたと述べています[野村あとがき:上巻249-50ページ]創作のスタイルそのものまでもが挑戦的であったことということです。

(b) 歴史を書くことの困難:あるいはハッピーエンドと社会の破れ目のはざまで

 ここで注目したいのは、いつもの真実8:嘘2の配分でなく、真実2:嘘8の配分で書いたのはなぜかという点です。それはヒストリカル・ファンタジーライトノベルで書くうえでの困難と結びついていると思われます。上記の修業期間の短さについては、ヒロインの年齢問題について作者が述べています(史実通りだと、ロクサーヌ女王の年齢は30歳台以上になってしまうのです)。加えて、無口で淡々とした主人公の天才性を際立たせるという側面もあったことでしょう。

 その結果、フランス革命から王政復古期へというフランス近代史の複雑にして重要な局面はかなり省略されています。その結果、革命の過程は10年短くなっています。以下に年表を掲げましょう。

【現実=西暦】

1789年 フランス革命勃発

1791年 憲法制定、立法議会が成立

1792年 革命戦争が発生、周辺国が侵略

1793年 ジャコバン派独裁、ルイ16世処刑

1794年 テルミドールのクーデター、翌年に総裁政府が成立

1799年 ブリュメールのクーデター、執政政府が成立

1804年 ナポレオンが皇帝に即位

1805年 アウステルリッツ三帝会戦

1813年 ナポレオンがロシア遠征に失敗

1814年 王政復古、ウィーン会議

1815年 ナポレオンの百日天下ワーテルロー会戦

1830年 七月王政

【作品=聖暦】

1799年 革命勃発

この間 国王一家処刑、ロクサーヌらは亡命。国内混乱

1809年 バルトレオンがロクサーヌ女王を担いで王政復古

1813年 バルトレオンが東方遠征に失敗

1814年 クライスラー会議

1816年頃 バルトレオンのナスタシア遠征失敗と失脚

 本作はあくまでフィクションですから、政治的な出来事が実際の歴史と合わないこと自体は問題ではありません。むしろ重要なのは、人々の生きた社会のありようの変化についてです。これは本作で統治者としてのロクサーヌ女王が繰り返し語る重要なテーマです。彼女が女王に就任するきっかけとなった演説を見ておきましょう。

 汚れた顔をぬぐおうともせず、ロクサーヌは目を強く輝かせ、台の上から民衆に向かって叫んだ。

「革命を起こして、国は豊かになったでしょうか! 平和になったでしょうか! いいで! わたくしたちのフロリアは、以前よりも貧しく、戦争の絶えない哀しい国になってしまいました!」(中略)

 雨に降りかかる薔薇色の髪を劇的にかきあげ、振りやり、握りしめた手を高くかかげて叫ぶ。

「革命政府は過ちを犯しています! このままではフロリアの国は、諸外国に割譲されてしまいます!」

 わたしはまず、この国に安定を取り戻したい! そしてなにおり、この国を豊かにしたい! みんなが自由に職業を選び、一生懸命に働いた分だけお金持ちになり、贅沢を楽しめるようにしたい! そんな国を作るために、あななたち全員に奉仕したいと――訴え続ける。[野村:上巻233-34ページ]

 ロクサーヌ女王は、革命政府による政治の失敗を批判し、女王主導による秩序の回復と豊かな社会の建設を訴えています。彼女は王党派でありながら、自由な近代社会をつくることを表明しており、その点では自由主義的王政を敷いた七月王政に近い性格を持っているようです。貴族でありながら町の劇場で劇作家をしているオーギュストは、実はこうした政治・社会体制を象徴する人物でもあります。

 

 では、このような社会体制で果たして人々は豊かになれるのでしょうか。彼女が目指しているのは近代的な資本主義社会であって、自由競争によって成功者は豊かになりますが、元から貧しい民衆は伝統的な保護を失って労働者になるほかありません。アルジャンのように貧民から為政者の側近になる例は、むしろ例外でしょう。ロクサーヌの訴えは、この物語のテーマを明示するとともに、ヒストリカル・ファンタジーのなかの歴史を描くことの困難さを呼びこんでいるわけです。

 『アルジャン・カレール』は喜劇作家オーギュスト(大グリュー)の視点によるハッピーエンドの物語です。しかし、作中でも町の民衆や貧民が描かれていて、必ずしも幸せだけでない社会の破れ目が示されています。そして、ビクトル・ユーゴ―『レ・ミゼラブル』(Victor Hugo, Les Misérables, 1862)が、この物語の後の時系列を描いています。1832年と1848年のパリ蜂起はひたひたと迫っているのです。私たちは、真実と嘘の危うい綱渡りのなかで、ハッピーエンドと社会の破れ目がともに存在することを見逃すことはできないでしょう。この部分をきちんと描いているということは、野村美月の実力の高さを示しているように思います。

(c) 本作の意義

 以上論じてきたことをまとめましょう。野村美月『アルジャン・カレール』は、ヒストリカル・ファンタジーに挑んだ現代日本ライトノベルのなかでも稀有な作品と言えます。そこでは、物語と世界設定をつなぐ語り部(=オーギュスト)を配することで、①一方で無口で淡々とした主人公の活躍を描きながら、②他方で語り部によるハッピーエンドと貧困という社会の破れ目とが共存する矛盾に満ちた歴史的世界を描いたところに積極的な意義があるのではないでしょうか。

 ただし、厳しいことを最後に述べておくと、主人公アルジャンと語り部オーギュストという二元的にストーリーが展開することは、一貫性に乏しい印象を与えてしまいます。特にオーギュストの遺稿として物語が語られるという設定でありながら、非オーギュスト目線の話が多すぎるのは、バランスが悪いと思います。そのうえで言いますが、『アルジャン・カレール』は、作品全体を通して、歴史という大きな時の流れのなかで人々が逞しく生きる姿が明瞭に浮かぶ、良質なヒストリカル・ファンタジーであることは間違いありません。

 

 以前、「異世界」とはどのような世界なのかでも論じましたが、近代という「社会」を描くということは大変なことです。ファンタジー作品の多くは前近代を扱っていますし、スチームパンクは貧困や格差そのものが世界設定に織り込まれています。これに対して、独自の世界を作り上げることは並大抵のことではありません。作者は勉強に勉強を重ねたうえで世界を構築することになるのですが、だからこその骨太な面白さが作品に宿ることになることでしょう。野村美月は、ヒストリカル・ファンタジーに重要な足跡を残しました。後に続く人たちによって、このヒストリカル・ファンタジーというジャンルがさらなる発展を遂げることを願ってやみません。

 

【参考文献】

野村美月『アルジャン・カレール~革命の英雄、或いは女王の菓子職人~ 上』(ファミ通文庫1365、2014年10月発売)

野村美月『アルジャン・カレール~革命の英雄、或いは女王の菓子職人~ 下』(ファミ通文庫1366、2014年10月発売)

Historical fantasy - Wikipedia(英語版)(2017年9月7日閲覧)

 

 

(補足)野村美月さんの去就について

 今回取り上げた作者の野村美月さんは、恐らく1970年代後半生まれの女性で、合唱王国である福島県出身。東洋大学文学部の国文学科出身で、独自の文学の解釈や取材のための読書量は本当に凄いと思います。『赤毛のアン』や『若草物語』などの児童文学好きが作風に反映されている方です。さて、先に彼女のこれまでの作品を並べましたが、『ヒカル』シリーズが終わった頃の2014年から新たに1~2巻ほどの作品を立て続けに発表しています。他方で、その後発表したシリーズはいずれも打切りの憂き目にあっており、方向性を模索しているように見えました。

 さらに、「あとがき」によると、2014年に手術を受け、その経過が思わしく無かったのか翌年に2度目の手術を受けて、次の年も療養入院していると報告しています[野村あとがき:吸血鬼3巻314ページ、同4巻314-15ページ、楽園3巻284ページ]。2016年には「売り上げ的にも、体力的にも、もしかしたら私にとって最後の作品になるかもしれないと考えていた」という発言もあります。そして、7月1日のツイッターで長年一緒に仕事をしてきた担当さんが異動し、ライトノベル作家をやめようか悩んでいるという旨の発言をしています。

野村美月 @Haruno_Soraha
『うさ恋。』の後半からお世話になってきた担当さんが、本日づけで異動されました。私にとって本当に最高の担当さんでした。
2016/07/01 21:35:09
https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/748857473155538944

ファミ通文庫さんの最初の担当さんは、私の作品を本気で好いてくださる編集さんと最高の絵師さんの3人で、満足のゆく本を作りたいという、私のひとつめの願いを叶えてくださったかたでした。今でも、イラストを見直すたびに嬉しくなります。
2016/07/01 21:40:26
https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/748858803366440960

そして、異動された担当さんは、たくさんのかたに、よかった、と言っていただける作品を作りたいという、当時の私がひりひりしながら望んでいた、ふたつめの願いを叶えてくださいました。私の作品の質を彼女以上に高められるかたは、きっといなかったでしょう。
2016/07/01 21:44:09
https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/748858803366440960

できれば、最後のみっつめの願いも一緒に叶えたかったです。担当さんが変わったらお仕事はやめようと、ずっと思っていました。実際にそうなってみると、やめるにしても続けるにしても力不足で、ぼんやりしてしまいます。
2016/07/01 21:48:19
https://twitter.com/Haruno_Soraha/status/748860785296715776

 また、その前日付で書かれた「あとがき」でも、この担当さんの話が出てきており、「最後のお仕事」という言葉が使われています。

 この最終巻の完成稿をあげたあとに、ずっとお世話になっていた担当さんの異動が決まりました。一緒にお仕事をさせていただいた十二年間、私が書いてきた作品のどれも、担当さんのお力なしには書けなかったものばかりです。

 今はもう、ただただ感謝の気持ちと淋しさでいっぱいです。

 最後のお仕事で、念願の金髪のお姫さまを書けて、竹岡さんにも、どの女の子もとても素敵に書いていただけて良い思い出になりました。ここまでおつきあいくださった読者の皆さまにも本当にありがとうございました。[野村あとがき:楽園4巻285ページ]

この「あとがき」が刊行された、2016年9月以降、 野村美月さんの新刊は出ていません。執筆・刊行のスピードがとても速い方なので、引退されたのではないかと憶測されているようです。

 一方、ツイッターのプロフィール欄では「ライトノベル作家」と名乗っていますし、同人誌即売会で作家合同誌にもちょくちょく寄稿しているようですから、必ずしも引退とは言えなそうです。とはいえ、現時点では企画・執筆の話も特に聞きませんから、当面は新巻が刊行されないものと私は見ています。

 いずれにしても、引退したとか引退していないとかは外野がとやかく言うことではないでしょう。私自身も一ファンとして野村美月さんのことを見守りたいと思います。したがって、この記述も、あくまでもメモのようなものだと思ってください。

 

 さきほど引用した「あとがき」では、引用部分の前において、野村美月さんが子供の頃に読んだ本を改めて読み返した経験を語っていて、「子供の頃に読んだ本を読み返すのは、とても楽しい、幸せな行為だと思います。[同上:楽園4巻285ページ]と書いています。とても心温まるお話です。

 さらに言えば、子供時代の本に限らず、本を読み返すことそれ自体が楽しく幸せな行為だと私は思っています。もちろん、大人になれば仕事で読まなければならない本や、苦い思い出のある本もたくさんあるでしょう。けれども、それでも本を読み返すことは佳きことだと私は信じまています

 今後も機会を設けて、野村美月さんの本を「読み返す」記事を書いていこうと思いますので、その際もお付き合いいただければ嬉しく思います。

 

【参考文献】

野村美月『吸血鬼になったキミは永遠の愛をはじめる3』(ファミ通文庫1384、2014年12月発売)

野村美月『吸血鬼になったキミは永遠の愛をはじめる4』(ファミ通文庫1416、2015年4月発売)

野村美月『楽園〈ハレム〉への清く正しき道程〈ルート〉 1番目はお嫁さんにしたい系薄幸メイド』(ファミ通文庫1480、2016年1月発売)

野村美月『楽園〈ハレム〉への清く正しき道程〈ルート〉 庶民出身の国王様がまたご愛妾を迎えられるそうです』(ファミ通文庫1510、2016年5月発売)

野村美月『楽園〈ハレム〉への清く正しき道程〈ルート〉 国王様と楽園の花嫁たち』(ファミ通文庫1538、2016年9月発売)

 

(2017年9月16日 一部修正)