青春ラブコメの岐路と2010年代のライトノベル ― 渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(その一)
皆さんこんにちは。今回は、2010年代のライトノベルを象徴するビッグタイトルについて語ろうと思います。そう、渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(本編14巻+外伝3巻ほか、ガガガ文庫、2011年3月~19年11月)です。本作はすでに累計発行部数で1000万部を超え、メディアミックスではアニメ1期・2期、コミック版3タイトル、ゲーム版2タイトルなどを展開していて、とても高い人気を誇ります。
『俺ガイル』は単なる人気作に留まらず、多くのライトノベルに強い影響を与えました。本作が昨年11月発売の第14巻をもって本編が完結し、今年2020年4月からアニメ第3期が原作最終巻までを放送するという今こそ、いよいよ『俺ガイル』について総括的に論じることができる時期が来たのではないかと思います。
第1回目では、『俺ガイル』第1部に当たる第1~6巻までの構成とストーリー展開を踏まえながら、2010年代における「青春ラブコメ」の岐路について論じようと思います。ぜひお読みください。
―目次―
△ やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。| 小学館 ガガガ文庫
1.ラブコメの流行と『俺ガイル』第1巻の刊行
最初に刊行された『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2011年3月発売)=第1巻は、本作の出発点であると同時に、とても特殊な位置をしめています。第1巻の内容は一本のストーリーというより、個別のエピソードをつなげた連作掌編に近い形をとっています(注1)。もちろん、前半でテーマを示して終盤に盛り上げていくという構成も取られていて、全体としてテーマと構成で一つの物語を成り立たせています。
(注1)第1巻の構成は以下の通り。①主人公・比企谷八幡とヒロイン・雪ノ下雪乃との出会い、②雪乃との交流、③もう一人のヒロイン・由比ヶ浜結衣との出会い、④スクールカーストの人間模様、⑤依頼者その1(材木座)、⑥⑦依頼者その2(戸塚)、⑧エピローグ。人間関係を除くと、全体として一貫したストーリー展開にはなっていません。
なぜ、『俺ガイル』第1巻はそのような形をとっているのでしょうか? それは、もともと本作が1巻で完結する予定だったからです。このことは作者がインタビューで語っていますし[リビング千葉2015]、第1巻にはシリーズ番号が付けられていません。
作者の渡航は、『あやかしがたり』(ガガガ文庫、2009~10年)という伝記風の時代劇アクションでデビューを飾りました。この作品は、ガガガ文庫らしいエッジの効いたもので、高く評価する人も少なくありません。歴史小説・時代小説の大家である司馬遼太郎や藤沢周平の影響を受けたというだけはあります。しかし、結果的に前作はあまり売れず、新しい企画として作者が出したのが、「ラブコメ」だったのです[このラノ2014:57・59ページ]。
2000年代後半から2010年代前半にかけて、ラブコメは勢いのあるジャンルでした。特にその中心にあったのは、井上堅二『バカとテストと召喚獣』(全18巻、ファミ通文庫、2007~15年)や葵せきな『生徒会の一存』シリーズ(全21巻、ファンタジア文庫、2008~13年)といった学園を舞台にしたハイテンション・ギャグや、伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(全12巻ほか、電撃文庫、2008~13年)といったホームコメディでした。これらのラブコメ作品は、「萌え」とドタバタ展開(時に異能バトル)を軸としたものでした。それは、少し前の2000年代のブームだった美少女ゲームの影響や、「日常系」との差別化という側面があったように思います(「白鳥士郎の苦悩と躍進と2010年代のライトノベル」も参照)。
ラブコメの流行しているなかで、『俺ガイル』はどのような戦略をとったのでしょうか。この点について作者は、いわゆる「残念系」の流れをつくった平坂読『僕は友達が少ない』(全14巻、MF文庫J、2009~14年)と、中二病とスクールカーストを題材にした、田中ロミオ『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』(ガガガ文庫、2008年)を意識して書いたと明言しています[このラノ2014:59ページ]。
さらに付け加えておくと、『俺ガイル』が谷川流『涼宮ハルヒ』シリーズ(既刊11巻、スニーカー文庫、2003~11年)の影響下にあることは明らかです。特殊な部活を舞台に設定しているところや、主人公による一人称目線での饒舌な語りでツッコミを交えながらストーリーを進めているところなど、2000年代のライトノベルのトレンドを引き継いでいます。
つまり本作は、2000年代の「学園もの」の系譜を受け継ぎながら、残念系、中二病、スクールカーストをキャラクターと物語設定に織り込むことで、既存のラブコメ作品との差別化を図ったというわけです。これが『俺ガイル』第1巻が発売された当時のポジションだったと言えると思います。
2.残念系ラブコメから青春群像劇へ
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は第1巻が成功し、続編が刊行されることになりました。もともと1巻で完結する物語でしたが、「続編が出せると聞いてあわてて6巻くらいまでのストーリーをおおざっぱに考えました」と後に作者は語っています[リビング千葉2015]。作者の言うとおり、『俺ガイル』は第6巻までで一区切りの流れがあることは確かです。ちょうどアニメ第1期(2013年)もこの区切りが採用されています(注2)。
(注2)第1巻=アニメ1~3話、第2巻=4~5話、第3巻=6話、第4巻=7~8話、第5巻=9話、第6巻=10~12話。これによって、物語の軸である八幡と雪乃・結衣をめぐるストーリー展開が明確になっています。しかし他方で、サブエピソードがかなり省略されたことによる矛盾も抱え込んでしまいました。
さて、『俺ガイル』第2巻(2011年7月発売)は、第1巻のキャラクターと設定を継承しつつ、一本の物語としてまとめられています。第2巻では「ひねくれぼっち」な主人公として、「斜め下」の発想で活躍するという比企谷八幡のアンチヒーロー的なキャラクターが確定するとともに、スクールカーストの「内」と「外」を象徴する人物(葉山隼人と川崎沙希)が登場しました。続く第3巻(2011年11月発売)では、1巻で登場した主要キャラクター(雪乃、結衣、小町、戸塚、材木座)が掘り下げられています。さらに第4巻(2012年3月発売)では、スクールカーストの「内」と「外」が交錯する展開となり、八幡と対になる葉山のポジションが明確になるとともに、雪乃と対になる鶴見留美が登場しました。
こうしたストーリー展開から言えることは、シリーズ化することとなった『俺ガイル』は、「残念系」によってキャラクターを確立しながら、キャラクター小説的なスタイルから青春群像劇へと徐々にシフトしていったということです。ちょうど、ラブコメの流行にもかげりが差してきた時期でもあります。今から振り返ると、まさに「青春ラブコメ」は岐路に立たされていたのです。本作の場合、ラブコメとして主人公をめぐる恋愛が進んでいくことよりも、「青春もの」として登場人物をめぐる悩みや葛藤の方がクローズアップされてゆきます。
例えば、本作を象徴するキーワードである「本物」や「自己犠牲」という言葉が最初に登場するのは第3巻のエピローグに当たる部分なのですが、これはヒロインの結衣が主人公の八幡に対する特別な感情を否定するモノローグとなっています。
仮に。もし仮に。その思いが特別なものであったとしても、だ。
偶発的な事故で芽生えただけの感情を、自己犠牲を払ったおかげで向けられた同情を、他の誰かが救ったとしても生まれていた可能性のある恋情を、本物だと認めることはできない。
俺が彼女を彼女と認識せずに救ったのならば、彼女もまた、俺を俺と認識せずに救われたのだから。なら、その情動も優しさも俺に向けられているのではない。救ってくれた誰かへのものだ。
だから勘違いしてはいけない。
勝手に期待して勝手に失望するのはもうやめた。
最初から期待しないし、途中からも期待しない。最後まで期待しない。[渡航:3巻239ページ]
さらに付け加えると、八幡と結衣における「事故の被害者」という特別なつながりに対して、そのような特別なつながりを持たない雪乃が「寂しげな笑顔を浮かべる」 シーンが直後に入ります[渡航:3巻240ページ](注3)。このように、『俺ガイル』はラブコメとして始まりながら、第3巻のエピローグの時点でラブコメとは逆方向へと進んでいったのです(注4)。
(注3)この「寂しげな笑顔」とは、本作の第2部で彼女が繰り返し浮かべる表情に他なりません。
(注4)もちろんこのことは、『俺ガイル』が「ラブコメ」要素を完全に失ったことを意味するわけではありません。ただし、第3巻以降、「ラブコメ」は巻末の「ぼーなすとらっく!」や7.5巻のような番外編に場を移してゆきます。また、第8巻から本格的に登場することになる第3のヒロイン・一色いろはが、雪乃・結衣に代わるラブコメ要員の「優秀な中継ぎ投手」としてとして登場したことは、作者自身が語っているところです[このラノ2015:39ページ]。
3.青春群像劇のなかの『俺ガイル』
続いて、青春群像劇としての『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の性格について考えてみたいと思います。そもそも、現代日本のライトノベルでは、青春群像劇では一つのジャンルとして脈々と受け継がれてきました(もう少し広く「青春もの」と言ってもいいかもしれません)。レーベルとしては、電撃文庫とファミ通文庫が強い印象です(注5)。これらの作品の書き手は、後に文芸系のレーベルに進出したり、女性作家が目立つところが注目できるでしょう。
(注5)橋本紡『半分の月がのぼる空』(全8巻、電撃文庫、2003~06年)、竹宮ゆゆこ『とらドラ!』(全13巻、電撃文庫、2006~10年)、野村美月『”文学少女”』シリーズ(全16巻、ファミ通文庫、2006~11年)、庵田定夏『ココロコネクト』(全11巻、ファミ通文庫、2010~13年)、鴨志田一『さくら荘のペットな彼女』(全13巻、電撃文庫、2010~14年)など。
なお、より広い意味での「群像劇」にはさまざまなパターンがあります。例えば、①バトル+青春群像劇:神野オキナ『疾走れ、撃て!』(全12巻、MF文庫J、2008~16年)、柳実冬貴『対魔導学園35試験小隊』(全15巻、ファンタジア文庫、2012~16年)など。②多くの登場人物が掘り下げる:成田良悟『バッカーノ!』(既刊23巻、電撃文庫、2003年~)、鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』(既刊49巻、電撃文庫、2004年~)、佐島勤『魔法科高校の劣等生』(既刊31巻、電撃文庫、2011年~)、大森藤ノ『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(既刊29巻、GA文庫、2013年~)など。ですが、この記事ではより限定された意味で「青春群像劇」という言葉を用いました。
これに対し『俺ガイル』は、橋本紡のような「文芸っぽさ」とは明らかに距離があります。文芸系の作品は三人称目線が多く、登場人物の言動や情景を軸に語る傾向があるのに対して、本作では主人公である八幡の自己語りがとても強くなっています。登場人物の心情を掘り下げながらも、キャラクター性に根ざした主人公の主観を強く押し出している点が特徴的です。作者の渡航も次のようなことに言っています。 「『俺ガイル』で書こうとしているものは、舞台装置としては本来群像劇に近いと思うんです。ただそこからさらに一歩、主観に根ざしたものを書きたかった。だから八幡の一人称視点から俯瞰して書くのが、この作品の一つの特徴ですね」[このラノ2015:40ページ]。
ただし、主人公である八幡の主観といっても、それは『涼宮ハルヒ』のキョンのような傍観者的な語りとも、新海誠『秒速5センチメートル』(2007年)の遠野貴樹のような過剰に詩的でセンチメンタルな語りとも異なります。むしろ作品全体の雰囲気は、少女マンガからの影響の方が強いように思います(注6)。あえて図式的に整理すれば、新海誠的な男性目線の〈自己陶酔的でセンチメンタルな〉心情ではなく、それとは異なる〈自己言及的でナイーブな〉心情と人間模様の変化をストーリー展開の軸に置いていると言えるでしょう。
(注6)作者の渡航もインタビューのなかで、学生時代に読んで『俺ガイル』に影響を与えた作品として、きづきあきら『ヨイコノミライ』(ぺんぎん書房、新装版・小学館)、冬目景『イエスタデイをうたって』(集英社)、羽海野チカ『ハチミツとクローバー』(集英社)を挙げています[このラノ2014:59ページ]。
そして恐らくですが、『俺ガイル』の渡航だけでなく、竹宮ゆゆこや庵田定夏といった他の「青春もの」の書き手たちも、少女マンガ(または女性向けマンガ)からの影響を受けていると思われます。そう考えると、ライトノベルにおける青春群像劇あるいは「青春もの」は、少女マンガからの影響を受けたジャンルだと言えそうです。日本のコンテンツ文化の中心軸である少年マンガ、SF・ロボット、美少女ゲームとは異なるもう一つの中心軸が、このジャンルには流れ込んでいるわけです。
また『俺ガイル』に関しては、2000年代後半から続いてきたラブコメの流行が収束を迎えようとしたとき、少女マンガの要素を新たな形で取り入れることで、その後の高い人気を獲得するステップとなったのです。こうしたことの意義は、もっと評価されていいと思います(注7)。
(注7)さらにさかのぼれば、オタク文化における「萌え」もまた、1980~90年代における少女マンガの絵柄を美少女ゲームや男性向けマンガが取り入れてきたことを前提として成立し、2000年代に少女マンガから離れた独自の「萌え」文化が広がったという経緯があったように思います。このように、少女マンガは色々な時代にさまざまな形で影響を与えてきたのです。
4.八幡・雪乃・結衣、3人の関係の行方
さて、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は第4巻以降、主人公が直面する事件の解決がだんだんと難しくなってゆくことになります。この巻でも、鶴見留美の問題を解決するために彼女の人間関係を破壊するという手段に訴えますが、このやり方が後味の悪いものであったことは彼ら自身が自覚しています。しかも、4巻の最終盤で、雪乃が「事故の加害者」であったこと、さらに彼女の抱える問題の背景には実家や姉が絡んでいることが明らかになります。
第5巻(2012年7月発売)の後半部分では、物語の焦点が八幡・雪乃・結衣の3人の関係の行方にいよいよ絞られてゆきます。そこでは、雪乃が抱える問題に対して八幡や結衣がどのように向き合うのかが問われることになります。以下は、花火大会の帰りの八幡と結衣とのやり取りです。
「知らないままで、いいのかな……」
由比ヶ浜は得心いかない様子で、俯き足もとに目をやった。
歩みが止まってしまった由比ヶ浜に合わせるように、俺も立ち止まる。
「知らないことが悪いことだとは思わないけどな。知っていることが増えると面倒ごとも一気に増えるし」
知ることはリスクを背負う行為に外ならない。知らなければ幸せなことはたくさんある。人の本当の気持ちなどその最たるものだろう。
誰しも多かれ少なかれ自分を騙し欺いて生きている。
だから真実は常に人を傷つける。誰かの平穏を壊す存在でしかない。
数秒の沈黙。
それだけの時間考えて、由比ヶ浜は彼女なりの答えを出す。
「でもあたしはもっと知りたい、な……。お互いよく知って、もっと仲良くなりたい。困ったら力になりたい」
由比ヶ浜は先導するように歩き出した。
出遅れた俺はそのまま一歩後ろを歩く。
「ヒッキー。もし、ゆきのんが困ってたら、助けてあげてね」
「……」
そのお願いに応える言葉が見つからなかった。[渡航:5巻206-207ページ]
このように、雪乃が抱える事情に踏み込むべきではないと考える八幡ですが、彼自身の雪乃に対する心情はもっと複雑です。
俺は何も見てこなかったのではないだろうか。
彼女の行動やそこに至る心理がなんとなく理解できるときは確かにある。だが、それは気持ちを理解できることとイコールではない。
ただ環境や立ち位置が類似しているから、そこから類推することができて、それがたあたま近似値となっているだけのことにすぎないのだ。
人はいつだって見たいと思ったものしか見ない。
俺は彼女に何か近しいものを見いだしていたと思う。
孤高を貫き、己が正義を貫き、理解されないことを嘆かず、理解することを諦める。その完璧な超人性は俺が会得せんとし、彼女が確かに持っていたものだ。
俺は……もっと知りたいとは思わない。
俺が見てきた雪ノ下雪乃。
常に美しく、誠実で、嘘を吐かず、ともすれば余計なことさえも歯切れよく言ってのける。寄る辺がなくともその足で立ち続ける。
その姿に。凍てつく青い炎のように美しく、悲しいまでに儚い立ち姿に。
そんな雪ノ下雪乃に。
雪乃の高潔さに憧れ、さながら神聖視するかのような八幡の態度は、さらに自身への自己嫌悪へとつながります[渡航:5巻224ページ]。(なお、この一連の流れは、『俺ガイル』の第2部にあたる、第7巻以降の展開の伏線になっていることも見逃せません。)
『俺ガイル』第1部のクライマックスとなる第6巻(2012年11月)では、こうした3人のもつれた関係をどのように修復し、それぞれの問題を乗り越えてゆくかに焦点が当てられます。ここで作者は、ひとまずのハッピーエンドを与えました。八幡が雪乃のために「自己犠牲」の行動にでて、雪乃も姉に対して積極的に態度をとることができました。エピローグでは、1巻の友達にならないかのシーンが再現された後[渡航:1巻70ページ;6巻350ページ]、「事故のこと」をお互い水に流す会話がなされ、八幡のモノローグが入ります。
誤解は解けない。人生はいつだって取り返しがつかない、間違った答えはきっとそのまま。
だから、飽きもせずに問い直すんだ。
新しい、正しい答えを知るためには。
俺も、雪ノ下も、お互いのことを知らなかった。
何を持って、知ると呼ぶべきか。理解していなかった。
ただお互いの在り方だけを見ていればそれでわかったのにな。大切なものは目には見えないんだ。つい、目を逸らしてしまうから。
俺は。
俺たちは。
この半年近い期間をかけて、ようやくお互いの存在を知ったのだ。
名前と断片的な印象だけが占めていた人物像を、まるでモザイク画のように一つ一つ欠片を埋めて、虚像を作り上げることができた。
きっと実像ではないのだろうけど。
まぁ、今はそれでもいい。[渡航:6巻352-354ページ]
ここで八幡は、雪乃との出会いで感じた「憧れ」から、「ようやくお互いの存在を知った」ところまで辿り着いたことを確認します。そして、「お互いを知る」とは、5巻の花火大会の結衣の言葉でもあります。ここで、ようやく三人はスタートラインに立つことができたのです。
ここから「青春ラブコメ」は第2幕へと突入します。
おわりに
今回は、渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1~6巻までの構成とストーリー展開を踏まえて、2010年代のライトノベルにおける本作の位置と、物語の基本軸を考えてゆきました。
改めて論じたことをまとめておきます。本作は当時流行していたラブコメの変わり種(いわゆる「残念系」)として第1巻が発売されながら、その後だんだんとラブコメから離脱してゆきました。2000年代後半から続くラブコメの流行にかげりが見えるなかで、少女マンガの要素を取り入れた青春群像劇へとシフトしていったのです。言うなれば、2010年代の初頭、「青春ラブコメ」が岐路に立たされたとき、青春「ラブコメ」から「青春」ラブコメへとシフトすることで成功したのが『俺ガイル』だったのです。
とりわけ、『俺ガイル』の第5~6巻のストーリー展開は、主人公である八幡の目線を通して、登場人物をめぐる心情と人間模様の変化をていねいに紡いでゆくものとなりました。それは、本作の第2部に当たる第7巻以降の物語の基本軸となります。ようやくスタートラインに立った主人公たちは、いっそう解決の難しい事件に主人公たちがどのように向き合うのでしょうか。この問題については、2回目を現在準備中ですので、しばらくお待ちください。
【参考文献】
・渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(ガガガ文庫、2011年3月発売)
・渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2』(ガガガ文庫、2011年7月発売)
・渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。3』(ガガガ文庫、2011年11月発売)
・渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4』(ガガガ文庫、2012年3月発売)
・渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。5』(ガガガ文庫、2012年7月発売)
・渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2』(ガガガ文庫、2012年11月発売)
・「“俺ガイル”原作者 渡 航さんにインタビュー!」(リビング千葉Web、2015年2月19日、2020年4月5日閲覧)
・「渡航インタビュー」(『このライトノベルがすごい!2014』、宝島社、2013年12月)
・「渡航インタビュー」(『このライトノベルがすごい!2015』、宝島社、2014年12月)
・「「ラノベの特異点」として『僕は友達が少ない』を紹介するコラムと、『はがない』から『俺ガイル』への流れについて。」(Togetter、2018年10月2日、2020年4月10日閲覧)
(2020年4月11日 加筆修正) とりわけ、注7を中心とした加筆はmizunotoriさん(@mizunotori)のご指摘を踏まえました。この場をお借りして感謝申し上げます。
(2020年5月1日 一部修正)