現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

かくも饒舌な青春の物語 ― 大澤めぐみ『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』

 新年明けましておめでとうございます。今年も本ブログ「現代軽文学評論」をよろしくお願いします。さて、昨年一年間を通じて注目してきた作家さんの新作について、今回はお話ししたいと思います。 それは、大澤めぐみ『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』(角川スニーカー文庫、2017年11月発売)です。『おにぎりスタッバー』(角川スニーカー文庫、2017年1月刊行)で衝撃的なライトノベルデビューを果たした作者が放った次なる作品は、前作同様に饒舌でありながら、一つひとつの言葉が胸に染入るような、とても繊細な作品でした

 スニーカー文庫としては『6番線に春は来る。』は推しの作品のようで、ネットでの評判の方も上々です。青春グラフィティーが一つの潮流をなしている今日のライトノベルにおいて、この作品は間違いなく良作として記憶に留められることでしょう。今回は、この物語のストーリー展開を丁寧に読み解きながら、(1)登場人物の役割と物語の構成、(2)作者の饒舌な文体、(3)作品で描かれる高校生の生活の背景にある地域社会と「学校」、の三つの観点から紹介してゆこうと思います。ネタバレは平にご容赦を。

―目次―

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大澤めぐみ『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』 - ザ・スニーカーWEB

1.4人の高校生の喪失と別れの物語

 『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』の舞台は長野県の松本盆地。物語は、田舎の公立高校に通う4人の男女をめぐるそれぞれの交流を描いた第1~4話と、別れの瞬間を描いたプロローグおよびエピローグからなります。以下、ネタバレです。

 

 プロローグは、春まだ寒い3月の松本駅3番線ホームで東京行きの特急を待つ「わたしたち」二人のシーンから始まります。「ちゃんと、別れの言葉を言おう。綺麗にお別れをしよう。[大澤、7ページ]と語ったところで、時間は過去へと、第1話へと移ります。

 第1話は、高校1年生の秋、郷津香衣〈ごうつ・かい〉の視線から語られます。彼女によれば、自分は友達をつくるのが苦手で背伸びしてオシャレをしているもののどこか馴染めず、勉強が少々得意なくらいなのだと言います。そんな彼女が友達といえるのが都会的で明るく馴れ馴れしい美少女の峯村セリカ。ですが、セリカは独特の距離感を保つ娘で、ケータイの番号も知らなければ放課後に一緒に遊んだこともありません。

 そんなある日、セリカが「好きな人ができたかも」と言ってきました。その相手はサッカー部の1年生レギュラーの諏訪隆生〈すわ・たかお〉――香衣が中3の時から付き合っていた(かもしれない)彼だというのです。香衣は諏訪くんと一緒に受験勉強をしてキスまでした仲でしたが、高校入学後は関わる機会がなくなってしまった、そんな関係でした。セリカの発言に動揺した香衣は、その日の帰り、松本駅で諏訪くんを見かけます。声を掛けようか、掛けまいかと逡巡するうちに電車が出発してしまいます。

さっきのがたぶん、本当に本当の最後のチャンスだったのだ。それさえも、わたしはわたしのつまらない自意識だかプライドだかで蹴飛ばしてしまって、台無しにしてしまって、通り過ぎてしまえばもう戻らない。[大澤、76-77ページ]

 

 第2話は、高校2年生の夏、諏訪隆生の視点から語られます。彼の所属する公立高校のサッカー部はインターハイに出場するほどの強豪校で、諏訪くんはその中心選手です。自分を見下す奴を見返したいという思いから、練習に練習を重ねて強くなった諏訪くんですが、サッカーが得意になった今その思いは宙ぶらりんになってしまい、自分はサッカーが好きなのかと自問自答しています。

 中学時代にクラスでいじられていたなか唯一平等に接してくれた、一緒に受験勉強もした、頭が良くて高校生になって綺麗になった、郷津香衣への思い。彼女と付き合っていると噂されている、校内で有名な不良の丸山龍輝〈まるやま・りゅうき〉の存在。自分にちょっかいを掛けてくる峯村セリカ。諏訪くんは思わず龍輝やセリカに突っかかってしまいます。そして、自分の不注意によるケガで訪れた保健室での香衣との再開。

なにしろ、誰かを好きになるのなんて、初めてのことだったのだ。最初は上手くやれるやつなんて、どこにもいない。自分が下手なのを恥ずかしがって練習しないやつが上達することはない。そんな当たり前のことすら、俺は簡単に忘れてしまう。下手でもいい。失敗してもいい。やらないことには、一歩も前に進めないから。[同前、145ページ]

彼は香衣のことを好きだと告白しますが、彼女は「わたしも……諏訪くんのこと好きだったよ」と過去形で答えました。すでに手遅れだったことに、ようやく気付かされます。今はサッカーだけが自分の手許に残っていると諏訪くんは気付きます。「もうちょっとくらい、サッカーも頑張ってみるか」と彼はグラウンドに向かっていきます。少しの未練を胸に秘めながら。

 

 第3話は、高校2年生の冬、丸山龍輝の視点から語られます。彼の家族関係はこじれていて、「メロンが飛ぶ」という事件をきっかけに彼は両親に見切りを付けて家に寄り付かなくなります。夜は松本市内のクラブに出入りしていて、今はそこが彼の居場所です。受験のことを考えないといけないけれど、とても集中できる環境ではありません。学校での態度は不真面目で、彼の通う進学校では「不良」として扱われてしまいます。

 そんな彼の癒しは、松本駅の6・7番線にある立食い蕎麦屋で出会った郷津香衣。彼女に一目惚れした龍輝は彼女のことを心の中で「天使」と呼んでいます。けれども彼女は龍輝のことを「丸山くん」としか呼ばず、どこか距離もあります。ですが、龍輝はセリカの後押しで香衣をデートに誘うことに成功し、「龍輝くん」と呼んでもらえるまでになります。ある日、トラブルに遭ってこれまで出入りしていたクラブから逃げだす羽目になります。北国の冬の路頭に迷った彼は香衣に助けを求めて電話をかけ、家族と話し合うよう背中を押してもらいます。そして彼は父親と和解し、進路について考え、真面目な受験生となることを決意します。

 

 第4話は、高校3年生の春、峯村セリカの視点から語られます。彼女の家庭事情は龍輝よりもさらに厄介で、育児放棄をしてきた母親は蒸発し、母の元愛人(小平正弥)と一緒に貧困状態で暮らしています。こうした人生経験ゆえに、セリカは周りの人を「バカ」だと思って見下し、自分が性的被害に遭わないために「キャラ」を作って優等生の郷津香衣の友達ポジションに収まっています。香衣や龍輝をけしかけたのもわざとだったのです。

 しかし、ある日そんなセリカの感情が爆発する出来事が起こります。彼女は貧困を隠して高校に通っており、進学せず就職することを考えていました。それを知った香衣が、セリカのことを問い詰めたのです。怒りを爆発させて学校を飛び出したセリカを、香衣は川を渡ってまでして追いかけます。そこでようやく二人は向き合い、セリカもまた大学進学と同居状態の解消への道を模索し始めます。

 

 エピローグは、3月の松本駅3番線ホームに再び戻ります。香衣・セリカ・龍輝はそれぞれ大学進学を果たし、諏訪くんはサッカーのプロチーム湘南ベルマーレと思われる)への入団を果たします。東京へ旅立つ香衣は仙台に行く龍輝に別れを告げようとする冒頭のシーンが再現されますが、遠く離れても一緒にいたいと告白し、龍輝もそれを力強く受け入れて物語は終わります。

2.登場人物の役割と物語の構成

 ここまで紹介したように、『6番線に春は来る。そして今日、君はないなくなる。』は、心情と情景を丁寧に描いた青春グラフィティーというべき作品です。キャラクターが主体というライトノベルの一般的な形式は後継に退いています。両者は必ずしも両立しないわけではないとは思いますが、型にはまらないリアルな登場人物を描くという点でこうした形式がとられたのだと思います。

 本作の登場人物の面白いところは、主観的な自己評価と他者からの評価のズレが見事に示されているところです。香衣にとって勉強は人間関係が苦手な自分が必死になってガリ勉をしているという感覚ですが[大澤、31-32ページ]セリカから見れば膨大な量の課題を圧倒的な作業量で片付ける「学力ブルドーザー」と評され[同前、230ページ]、エピローグでは東京大学に現役合格しています。容姿についても、田舎っぽさが抜けないという自己評価に対して、周りからは清楚な美人と見られています。

 また、諏訪くんは周りからの評価に苦しんでいる人物ですし、セリカは周りからの評価をコントロールするべく意識的に振る舞っている人物です。これに対して、特別な役割を与えられているのが龍輝です。彼は周りから「不良」として認識されていることも、それが仕方ないことも自覚していて、冷静な自己評価をすることができる「大人な」存在なのです。

 

 『6番線に春は来る。』では、5つの別れの物語が巧みに構成されています。第1・2話での香衣と諏訪くんとのそれぞれの別れ、第3話での龍輝のこれまでのクラブ通いからの別れ、第4話でのセリカと正弥との別れが連なり、そして、最後にプロローグから引っ張ってきた香衣と龍輝の別れの場面へと収束するという構成です。ロマン派の交響楽のように、心情に焦点を当てて、主題を起点としながら、次の楽章、次の楽章へと移り変わり、最後に主題が再演されるという形式です。

 それぞれの「別れ」の性格も異なります。第1話の香衣にとっての別れは悲しい物語として、第2話の諏訪くんにとっての別れは寂しさとともに少しの希望も存在しています。さらに、第3話の龍輝にとっての別れは新しい生活の始まりという希望が明確に語られ、第4話のセリカの別れは香衣との和解のうえの希望として語られています。〈悲しい物語から希望の物語へ〉。ここでも龍輝は特別な存在です。かくして、プロローグにおける悲しい別れの予感は、エピローグにおいて希望の旅立ちの物語へと転轍されるのです。

3.大澤めぐみの饒舌さ

 さて、ここで『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』の作者である大澤めぐみについて触れておきましょう。大澤めぐみは、2017年1月刊行(実際には前年12月末が発売日)の『おにぎりスタッバー』で、ライトノベルデビューを果たしました。この作品はとにかく衝撃作で、人間を喰らう女子高生の中萱梓をめぐる恋と友情と不思議な魔法(?)の生活が、時に一段落2ページ以上も続くような一人称の語りによって綴られる作品です。ページを開くと、まず文章の怒涛の勢いに押し流され、気が付けばその不可思議な世界に迷い込んでしまいます。

 大澤めぐみは、KADOKAWAが運営する小説サイトカクヨム」の出身で(大澤めぐみ(@kinky12x08) - カクヨム)、そこで評判になったところからライトノベルでのデビューを果たしたわけです。現在も、カクヨムで新作を発表している模様です。以前こちらでも紹介した、トネ・コーケン『スーパーカブ』(既刊2巻、角川スニーカー文庫、2017年5月)や九曜『佐伯さんと、ひとつ屋根の下 I'll have Sherbet!』(既刊3巻、ファミ通文庫、2017年2月~)などのように、2016~17年にかけて、カクヨムからのデビューはかなり一般的になってきたものと思われます。昨年より刊行点数はますます増えていて、しばらくはこのトレンドが続くことが想定できるでしょう。

 

 デビュー作となった『おにぎりスタッバー』、続巻の『ひとくいマンイーター』、いずれも夢中になって読みました。華麗で勢いのある一人称の文体にひたすら圧倒されるのですが、この饒舌さの向こう側に何があるかを読み取ることが大切です。私が思うに、描写や説明は控えめにして、心情を登場人物の自らの言葉によって語らせるところに大澤めぐみの巧みさがあるのではないでしょうか。

 これらの作品と比べたとき、『6番線に春は来る。』の文体の特徴も明らかです。前作と違って、本作では描写は丁寧になされていますが、饒舌さを通して心情を登場人物の言葉で語るところは引き継がれています。そして、これが実はとても難しいのです。

 

 現代日本のライトノベルは、主人公による一人称視点をとる作品が多く、それゆえ数多くの饒舌な主人公たちを生み出してきました。代表的なのは、谷川流涼宮ハルヒ』シリーズ(既刊11巻、角川スニーカー文庫、2003年6月~)のキョンでしょう。キョンの語りの特徴は、皮肉とユーモアを交えた諧謔的かつ衒学的なもので、他人や状況を分析し評価するものです。ここにキョンのキャラクターとしての魅力があります。

 しかし、『おにぎりスタッバー』の中萱梓や『6番線に春は来る。』の郷津香衣はこうしたタイプの主人公ではありません。さまざまな知識が散りばめられた衒学的な部分は確かにありますが、彼女たちのさまざまな思考過程のなかから出てきた、自らの実感を伴った手の届く範囲の言葉のように思うのです。これに近い印象を受けるのは、壱乗寺かるたさよならトロイメライ』シリーズ(既刊11巻、富士見ミステリー文庫ファンタジア文庫、2004年1月~)の繊細かつ華麗な文体なのですが、こちらの作品についてはいずれ別に紹介したいと思っています。

4.高校生の生活をめぐって:地域社会、学校、進学と就職

(a) 地域社会のなかに生きる

 『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』は、高校生の生活をリアルに描いた作品でもあります。舞台となっているのは長野県松本市とその周辺です。彼女たちが通っている捧庄高校は、松商学園高等学校がモデルと思われ、実際に第4話で描かれている「薄川」沿いの学校です。ちなみに、捧庄〈ささげのしょう〉とは、平安時代後期に成立した荘園の名前で、現在の松本市中心部にあったとされます。12世紀の院政時代には八条院領として、捧中村庄と捧北条庄に分かれていましたが、13世紀に入り守護領に入り深志郷とともに小笠原氏の支配に入って解体しました。

 特に第1話で出てくる、香衣と諏訪くんの地元である安曇野市(旧穂高町)をめぐる固有名はいずれも実在のもので、穂高東中学校、碌山館、穂高神社大糸線穂高駅などが登場しています。作者の大澤めぐみはtwitterのプロフィールによると安曇野市在住とのことであり、おそらく地元なのでしょう。

 

 また、第3話で龍輝が行動する場所や香衣とのデートコースもほぼ実在しています。私が印象的だったのは、最後のシーン。

渚の交差点を過ぎると、あたりは急激に漆黒の田園風景になる。俺は遠い街の灯をぼんやりと眺めながら、よし、やってやるぞと、なにかを決意している。さらば、松本の夜の灯よ。だいぶ長いこと寄り道をしてしまったが、俺はきっとここから巻き返していく。いまよりもと、もっと速く。もっと強く。[同前、219ページ]

「渚の交差点」とは、彼が夜を過ごしていた松本パルコの周辺から西へ抜けた先にある渚一丁目交差点のこと。ここから野麦街道(国道158号線)に入って奈良井大橋を渡ると市街地が途切れます。これまで電車(松本電鉄)と徒歩で松本市内を歩きまわっていた龍輝が、和解した父の自動車に乗って郊外へと向かいます。松本盆地の都会の灯と郊外の暗闇が対比されて、彼の決意が重ねられているのです。

 前作の『おにぎりスタッバー』では、中萱梓、穂高先輩、松川さんといった登場人物に安曇野地域の地名が使われていましたが、今回は実在する町をモデルとすることで、リアルな登場人物たちが地域社会のなかに生き生きと存在していることが描かれているのです。

 

(b) 社会の仕組みとしての「学校」

 学校生活を軸に見たとき、4人の登場人物は極めて対照的です。香衣は勉強することに違和感がなく、成績は学校一の優等生。諏訪くんは部活に打ち込む努力家です。二人とも、現代日本における社会の仕組みとしての「学校」に適合した人物です。

 これに対して、社会の仕組みとしての「学校」から逸脱しているのが龍輝とエリカです。龍輝の場合、この逸脱を自覚しているのですが、受験をして進学しなければならないとは漠然と思っていました。セリカの場合は、この逸脱を内面化までしています。セリカは決して勉強が嫌いなわけではありませんが、経済環境から進学を断念し就職を希望していました。

 

 社会の仕組みとしての「学校」とは、何者でもない子どもたちを一定の物差し(例えばテストの成績)で測って、進学と就職といった進路に絶えず振り分けてゆくものです。身分制度があった前近代社会では武士の子どもは武士、農民の子どもは農民になるものでした。しかし、自由で能力本位な近代社会では、誰が何になるかは予め決まっておらず、「能力」によって選抜する仕組みが必要でした。これこそが「学校」というわけです。

 けれども、近代社会が自由で能力本位であることは「建て前」であることは誰もが知っていることでしょう。経済的・政治的・社会的な要因で学校に行けない人、あるいは精神的・肉体的な事情で学校に生きづらい人がいるわけです。経済的に困窮しているセリカは、まさしくそのような問題に直面しています。セリカは香衣とぶつかって、次のように内面を述べています。

自分が恵まれていることにも気付かずに、自分が思っている普通は他の誰かに取っては特別なんだってことを、きっと想像したこともなく、普通の家庭で、普通に父親と母親がいて、当たり前みたいに高校に通わせてもらえて、大学の進学資金だって、当然のように出してもらえて、いいことがあったら丸ごとのメロンでお祝いをするような、そんな特別を生まれた時から当たり前のように享受してきて、あまつさえ、平気な顔で「どうして?」と問いかけてくる。それが、どれだけ人を傷つけるのかを知りもしないで。そういう、善良で正しい普通の人が、わたしはめちゃくちゃムカつくのだ。[同前、271ページ]

また、諏訪くんと同じサッカー部の百瀬も、経済的事情から防衛大への進学を検討しています[同前、118-19ページ]。こうした社会の仕組みとしての「学校」をめぐる、登場人物の交錯という観点からも、本作は読むことができるのです。

 

(c) 学校化社会のなかで

 現代の日本社会では、学校に行くことは「当たり前」とされています。高校進学率は97%を超えていて、大学進学率も50%超、短大・専門学校などを含めると70%に達しています。教育社会学者のイヴァン・イリイチはこうした状態を学校化(schooling)と呼び、日本の学校化社会については苅谷剛彦が「大衆教育社会」とも呼んでいますイリイチ1970=1977;苅谷剛彦1995]

 重要なことは、学校に行くことが「当たり前」となると、経済的・政治的・社会的な要因や精神的・肉体的な事情で学校に行きづらい人が「当たり前でない」=逸脱した存在として認識されてしまうことです。イリイチはこうした状況を批判的に分析するために、脱学校化(deschooling)という観点を打ちだしています。

 

 『6番線に春は来る。』では、話が進むなかで、龍輝とエリカは社会の仕組みとしての「学校」に再び戻ってゆきます。 龍輝は受験を選び、香衣の指導のもと東北大学(おそらく工学部)に進学を果たします。エリカにしても、元々頭のよい人であったようで信州大学に進学し、お金はないながらも奨学金と寮で生活していこうとしているようです。むしろ学校から離脱したのは、プロサッカー選手になる諏訪くんの方です。さらにその外側には、セリカの実の父母や同居していた小平正弥、松本市内のクラブ・ソニックに出入りしているユーサクさんが存在しています。

 社会がどれほど学校化しようとも、そこに馴染めない人、逸脱する人、逸脱してから回収される人と、様々な形で「脱学校化」の流れが生じます。結局のところ、「学校」は社会の仕組みの一部分でしかなく、こうした問題を実際に受け止めているのは地域社会です。このように考えたとき、『6番線に春は来る。』で描かれている世界は、学校と地域社会が不連続に繋がっていることが分かります。本作は饒舌な青春の物語を描きながら、社会の仕組みとしての「学校」を相対化し、地域社会との微妙で複雑な関係が背景として存在していると言えるでしょう。

 

(d) そして、東京へ

 さらに本作は、エピローグでこの地域社会さえも相対化してしまいます。なぜなら、登場人物は東京へ、仙台へ、湘南へ、あるいは地元の松本に残るからです。エピローグの香衣と龍輝の別れの物語は、松本駅3番線で8時ちょうどのスーパーあずさ6号を待っている場面です。狩人のヒットソング「あずさ2号」は、新宿駅から松本行の特急に乗る女性の悲しい旅立ちの歌ですが、『6番線に春は来る。』では松本駅から東京行の特急に乗る女性にとっての希望をはらんだの旅立ちの物語です。要するに、本作は「あずさ2号」の対になっていることが示されているわけです。

 『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』というタイトルも、特急が発車する「3番線」でなく、香衣と龍輝が出会った「6番線」です。松本駅6・7番線ホームは、松本駅のメイン構内から少し外れた場所にあり、香衣が乗っていたJR大糸線と龍輝が載っていた松電上高地線が合流する小さなローカル線のターミナルです。地元だけのローカルな6番線と東京行きの特急が発着し「君がいなくなる」3番線が対比されているのです。

 全編を通じたコントラストの巧みさから、学校、地域社会が鮮やかに描かれ、青春グラフィティが饒舌に語られる――大澤めぐみ『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』とは、そのような物語なのです。

 

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【参考文献】

・大澤めぐみ『おにぎりスタッバー』(角川スニーカー文庫20135、2017年1月発売)

・同『ひとくいマンイーター』(同20229、2017年3月発売)

・同『6番線に春は来る。そして今日、君はないなくなる。』(同20619、2017年11月発売)

・イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』(東京創元社、1977年、原著1970年)

苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ――学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書1249、1995年)

 

(2018年1月14日 一部修正)

(2018年1月15日 一部修正)タイトルを誤表記しました。痛恨のミスです。申し訳ありません。

(2018年1月29日 一部修正)

(2018年3月31日 一部修正)

6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。 (角川スニーカー文庫)

6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。 (角川スニーカー文庫)

 
おにぎりスタッバー (角川スニーカー文庫)

おにぎりスタッバー (角川スニーカー文庫)

 
ひとくいマンイーター (角川スニーカー文庫)

ひとくいマンイーター (角川スニーカー文庫)

 
さよならトロイメライ (富士見ミステリー文庫)