不安定な過去、その不気味な創出 ― 伊藤ヒロ『異世界誕生 2006』
こんにちは。仕事が忙しい関係で、しばらく更新をさぼっておりました。話題作が色々出ているのに、積ん読がどんどん増えてしまって恥じ入るばかりです。とはいえ、積ん読にしては後悔してしまう作品も数多くあります。今回はそんな作品として、伊藤ヒロ『異世界誕生 2006』(講談社ラノベ文庫、2019年9月発売)を紹介します。
すでにこの作品はウェブ上でも話題を呼んでいますが、なぜこの本がスゴイのか、なかなか言語化しづらい作品でもあるようです。私が目にしたなかでは「小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ」が掘り下げた考察を行っていて、「『死の清算」と『メタフィクション』を見事に融合させているという点において、この作品はライトノベルの新境地を切り拓いています」と高く評価しています。これに対して、私自身は、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いを感じました。この感情の正体とは一体何なんでしょうか。多くの読者を惹きつけてやまない『異世界誕生 2006』の不思議な魅力に今回は切り込んでいこうと思います。
―目次―
1.伊藤ヒロの不気味な総括的作品
さて、本作の作者である伊藤ヒロについては、贅言は必要ないでしょう。ゲーム業界出身で、『魔法少女禁止法』(一迅社文庫、2010年7月発売)でライトノベル作家としてデビュー。『女騎士さん、ジャスコ行こうよ』(全4巻、MF文庫J、2014~15年)、『家畜人ヤプー Again』(鉄人社、2017年)など、極めてアクの強い作家として知られています。
本作『異世界誕生 2006』もまた、近年流行っている「異世界もの」に対するアンチテーゼとして書き始められましたが、書籍化のなかで大幅に手直しを加えて、独自の作品になったと語っています。それは、「ラノベ作家伊藤ヒロの、現段階での総括でもあります」と述べています[伊藤あとがき:1巻294ページ]。
どういったところが伊藤ヒロにとっての総括なのでしょうか。この点についても、作者は明確に語っています。「この本を通して伝えたいのは、人と人との関わり方や、家族のあり方、さらには創作物に対する作者の向き合い方……そういったものです。難しいテーマでしたが、がんばって書きました」と述べています[伊藤あとがき:1巻294ページ]。確かに、本作『異世界誕生 2006』を読めばそうしたテーマは明確に描かれています。
でも、ちょっと待ってください。この本を一読すれば分かるのですが、本作はそんなに一筋縄にいく作品ではありません。例えば、上に引用した本作のテーマですが、近年のさまざまな作品がこの問題を描いていたはずです。人と人との関わり方といえば、大ヒット作である渡航『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』(ガガガ文庫、2011~19年)が、まさにそれ。家族や創作を主題とした作品も数多くあります(注)。さらに言えば、伏見つかさ『エロマンガ先生』(電撃文庫、2013年~)が、人と人との関わり方+家族のあり方+創作物に対する作者の向き合い方について描いています。
(注)おススメの作品としては、岩田洋季『花×華』(全8巻、電撃文庫、2010~13年)と遍柳一『平浦ファミリズム』(ガガガ文庫、2017年)があります。また、本ブログでは五十嵐雄策『幸せ二世帯同居計画』(電撃文庫、2016年)や木緒なち『ぼくたちのリメイク』(MF文庫J、2017年~)を紹介していますので、そちらもご覧下さい。
もちろん、そうしたことを伊藤ヒロが知っているはずです。であるならば、もっと深い部分で、このテーマが問われなければなりません。そして、冒頭でも述べたように、少女の目線から語られる、痛々しくて苦しいこの物語を通じて、もっと、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いを私は感じました。『異世界誕生 2006』には、このテーマを貫いている奥底の不気味な響きが存在する、そのように感じるのです。その不気味な響きについて語る前に、まずこの物語の概要を確認しておきましょう。
2.物語のさまざまな読み方
(a) 妹が語る、兄の死とその後の家族の物語
『異世界誕生 2006』の内容紹介は、公式HPや文庫裏表紙のものがとても優れているので、以下に引用しておきます。
2006年、春。小学六年の嶋田チカは、前年トラックにはねられて死んだ兄・タカシの分まで夕飯を用意する母のフミエにうんざりしていた。たいていのことは我慢できたチカだが、最近始まった母の趣味には心底困っている。フミエはPCをたどたどしく操作し、タカシが遺したプロットを元に小説を書いていた。タカシが異世界に転生し、現世での知識を武器に魔王に立ち向かうファンタジー小説だ。執筆をやめさせたいチカは、兄をはねた元運転手の片山に相談する。しかし片山はフミエの小説に魅了され、チカにある提案をする――。
どことなく空虚な時代、しかし、熱い時代。混沌を極めるネットの海に、愛が、罪が、想いが寄り集まって、“異世界”が産声を上げる。[1巻裏表紙]
このように、この物語は嶋田チカという一人の少女の目線で進んでいきます。ストーリーが進むにつれて、母フミエの精神状態がどんどんおかしくなってゆき、妹チカも戸惑いを深めてゆきます。その混乱のなかから、徐々に兄タカシの死の「真相」が明らかになっていき、最後は、兄の死の「真相」をどのように改めて受け止めるか、という形で物語は収束します。
(b) 息子を失った母親の痛々しい物語
この物語の語り手は、亡くなった嶋田タカシの妹チカです。ですが、物語の中心にいるのは母のフミエです。この点は、前島賢が簡潔に整理していますので、引用してみましょう。
……『異世界誕生 2006』は、事故死した長男の「異世界転生後」を書き続ける母親・嶋田フミエの物語だ。
しかし少なくない読み手が早々に挫折するのではないかと心配になるほど、本書で描かれる光景は痛々しい。息子の死を受け入れずに執筆に没頭するフミエのせいで嶋田家は崩壊寸前。さらに肝心の彼女の小説は稚拙なもので、だというのにタカシを殺してしまった自責の念に駆られる元トラック運転手の片山青年は、まったくの善意で彼女の作品をネットで公開しようとし、当然のごとくそれは匿名の悪意に晒される。正直、評者も読んでいて胃が痛くなった。
だが、最悪の展開の中にも伏線が差し込まれ、タカシの死の真相が明らかになるにつれ、物語の雰囲気は変わっていく。遺された者たちが、小説を書くこと、読むことで、ひとりの人間の死を受け入れていく、再生の物語の様相を見せ始める。このどん底からの展開が実に鮮やかである。[前島2019:好書好日]
物語の中心に母フミエがいることは、各話のタイトルが「母フミエと、〇〇」となっていることからも確認できます(プロローグとエピローグを除く)。
この文章で指摘されているのは、息子を失ってしまった母親の痛々しさです。当初は妹チカの目線から物語を追っていた読者は、母親の痛々しさに直面して、物語の中盤では無能感さえ覚えるでしょう。
(c) 「不安定な過去」が創出される物語
このようにストーリー展開を整理していくと、本作の骨格が、息子を失った母親とその娘の物語であることが改めて確認できます。過去は決して取り戻すことができない――そんな深い後悔を胸に抱きながら、取り返しのつかなさを少しずつ受け入れていく。多分、それがこの作品の普通の読み方でしょう。
しかし、それからはどうしても零れ落ちてしまう物語のピースがいくつも残されています。そこで今度は、さまざまな登場人物による、複数の物語の集まりとして『異世界誕生 2006』を読んでみましょう。
物語が始まる時点では、嶋田家の誰もが、タカシの死を受け止めきれておらず、家族は今にも空中分解しようとしています。嶋田家の人々は、どうしてタカシの死をうまく受け止められなかったのでしょうか。それぞれの事情は物語のなかで語られています。その理由を突き詰めれば、問題はタカシの死そのものよりも、タカシの死に至る過去への認識が揺らいでいる、ということに突き当たります。
タカシはどのような人物で何をしていたのか、家族はそれぞれにタカシにどのように振る舞っていたのか――家族の認識はバラバラで食い違っています。嶋田家の人々にとって、タカシの死は受け止めることの困難な「不安定な過去」となっているのです。
嶋田家の人々の認識の食い違いは、「人によってものごとは異なって見える」といった一般論では片付けられないほどに深刻です。母フミエは、「不安定な過去」に突き動かされて不気味な小説を書いています。認識の不一致に気付いている父カズヒロも、「不安定な過去」をどうにかしようとせず逃避しています。さらに言えば、タカシを轢き殺してしまった片山青年も、死に対する罰や償いに執着して母フミエやや妹チカの心をかき乱します。この物語の登場人物は、自らの手で「不安定な過去」を創出しているわけです。
ストーリーが展開するにつれて、嶋田家を取り巻く登場人物の行動が、過去の認識の不一致をさらに増幅させてしまいます。その結果、フミエは精神不安定な状態に陥ります。次々と新しい事実が判明しながらも、「不安定な過去」が拡大再生産されていくのです。
物語の終盤で、「不安定な過去」を肯定する動きがようやく現われます。ターニングポイントは、妹チカが過去についての認識の食い違いに気付いて、フミエに対して小説を書くことを初めて認めたところです(第15話)。その後、出版社の編集者、タカシの過去を知るネット上の人物が登場して、「不安定な過去」が創出した小説を応援するようになります(第16話)。とりわけ、悪罵を続けていたネット民が過去のタカシを肯定したことで、ようやく「不安定な過去」は安定性を獲得したわけです。
しかし、よく読んでみると、安定性を獲得したのは母フミエと妹チカだけであることに気付きます。チカが小説を書くことを認めるのに先立って父カズヒロは見捨てられ(第15話)、母と妹の問題が解決したことで片山青年は罪を償う場所から去り、自身の感情を整理できないまま果てしない別世界へと旅立つように姿を消します(第17話)。「不安定な過去」はすべて決着がついたわけではなかったのです。
3.メタフィクションが紡ぐ過去の過去
ここまで見てきたように、『異世界誕生 2006』は、人と人との関係や、家族のあり方をめぐる「不安定な過去」を解決させきっていません。それどころか、この作品はさらにもう一つの「不安定な過去」が物語を覆っています。このことは作品の構造から確認することができます。
(a) 2006年という過去を意識させる仕掛け
この作品は、現在から2006年の過去を描いた物語です。ケータイ小説『恋空』のヒット[同前56ページ]など、2000年代半ばの雰囲気が具体的に描かれており、このことは様々な作品紹介が肯定的に取り上げています。
タイトルのとおり本書の舞台は2006年だ。ライトノベルにおいてもファンタジーの流行は過去のものになっていた時代の空気が巧みに映し出されている。現在のウェブ小説発の「異世界転生もの」ブームなど想像もできなかった黎明期の書き手は、どんな気持ちで作品を投稿していたのだろう。[前島2019:好書好日]
なお、2006年という時代設定も絶妙。今や巨大なネット小説の投稿サイトとなった「小説家になろう」が開設されたのは2004年である。しかし当時はまだ、ネット小説の主流は個人のHPだと記憶している。さらに、2チャンネルへの晒しや炎上なども、時代の空気を感じた。当時のネットの状況を知る人なら、懐かしく読むことができるだろう。[細谷2009:リアルサウンドブック]
しかし、私にはどうにも違和感を覚えます。郊外型のジャスコや携帯電話の普及[伊藤:1巻14ページ]、少し時代遅れのフロッピーディスク[同前28ページ]、今は変わってしまったタバコの銘柄[同前51ページ]などで説明的な文章が意図的に挿入されていて、2019年という現在から2006年という過去を描いていることを読者に強制的に意識させています。
この2006年という過去は、作者である伊藤ヒロが分析し解釈した過去に他なりません。例えば、「俗に、ゼロ年代と呼ばれる一〇年間。/なにもかもが、どことなく空虚な時代だった。ある学者はこの一〇年間を、『日本史上もっとも文化的にからっぽな年代』と呼んだ」[伊藤:1巻64ページ]という表現は、作者の分析を前面にしています。ここまでに説明的なのは、明らかに作者が「わざと」やっているからです。
(b) メタフィクションが立ち上げる「異世界」としての過去
なぜ、作者は2019年という現在から2006年という過去を描いていることを「わざと」読者に意識させているのでしょうか。それは、「異世界物」が流行っている現在から、ゼロ年代のファンタジー小説が創作されている状況を描くというメタフィクションを作者が強調したいからです。
本作が「メタフィクション」であることについては、「小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ」が掘り下げて説明しています。
『異世界誕生2006』は、現実世界を舞台としています。そして舞台となった年は、2006年。
2010年代における現在の流行・興隆の様子を、ゼロ年代の異世界ファンタジーを執筆する書き手の周辺を舞台としてフィードバックさせることによって、メタ的な視点から現在の異世界ファンタジーを――ときにスパイスを効かせつつ――描写・分析する様は見事です。
(……)
『異世界誕生2006』において、死んだ息子が遺したプロットをもとに小説を書くようになった母親は、精神的不安定さから、現実と虚構が、精神世界と作品世界がないまぜになってゆきます。書き手の現実が小説に織り込まれてゆく様にはゾッとせずにはいられません。メタフィクションならではの構造です。
伊藤ヒロ『異世界誕生2006』――ライトノベルの新境地を拓いた作品を読みませんか? - 小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ
ところが、このメタフィクションとしての性格が強調されることで、かえってこの作品の描く過去に「わざとらしさ」が刻み込まれてしまいます。この「わざとらしさ」は、読者が物語に入り込むことを意図的に妨げ、読者は物語との断絶を常に感じながら作品を読み進めることになります。こうして、現在と2006年の断絶が不自然に強調され、「異世界」としての過去が不安定な姿で立ち上がります。この作品それ自体に「不安定な過去」が覆いかぶさっているのを読者は発見するのです。
(c) 過去の過去を覗き込む
つまり、本作は、現在から2006年という「不安定な過去」を語り、そのなかでタカシの死という「不安定な過去」を語っているという、底の抜けた構造を持っているわけです。この底の抜けたような構造から物語を改めて読んだとき、読者はぞっとするような、背筋の凍りつく思いを味わうことになります。
物語の中盤での「不安定な過去」がもたらした母フミエの行動は、単にそれが痛ましいだけでなく、過去の過去ゆえを覗き込むがゆえに読者に絶望的なまでの不能感を与えます。読者は物語との断絶を常に感じながら読むゆえに、ストーリー展開の取り返しのつかなさを覗き込むことしか出来ないのです。
物語の終盤では、一度は収束したはずの「不安定な過去」さえも、もう一度揺らぎだします。母フミエと妹チカたちは、タカシの死とそれに至る過去を、何かしら都合の良い解釈で「清算してしまった」だけかもしれないのです。その証拠に、エピローグでは母フミエによる小説の創作そのものを揺るがす謎の語りが挿入されています。
そうなると、本作の三人称文体もまた不気味に思えてきます。そこには、《作者の語り > 妹チカの目線 > 母フミエの不安定な行動》が織り込まれていて、常に揺らぎを伴っています。さらに、《フミエの書く物語》と《エピローグの謎の語り》が加わります。
このようにして、「不安定な過去」が繰り返し創出されてくるという不気味な世界を読者は覗きこむことになります。「不安定な過去」は何重にも響き渡り、鳴り止むことは決してありません。これこそが、私が『異世界誕生 2006』で覚えた、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いではないかと思うのです。
おわりに
ここまで、伊藤ヒロ「異世界誕生 2006」を取り上げて、メタフィクションが紡ぐ過去とその過去の物語を通じて、「不安定な過去」が繰り返し創出されているという作品であることを論じました。これは読み込みすぎだと思う方も多いかもしれませんが、私が感じた、ぞっとするような、背筋の凍りつく思いを与える不気味な響きについて、自分なりに考察した結果です。
もう一つだけ付け加えるとすれば、「異世界もの」や「時間転移・やり直しもの」には、一定の空間に主人公/語り手が介入するという、「不安定な過去」の類を創出する効果がしばしば埋め込まれているように思います。(例えば、木緒なち『ぼくたちのリメイク』もその一例かもしれません。)刊行が予告されている第2巻『異世界誕生 2007』で、さらに何が語られるのか。新たに創出されるものに期待する次第です。
お付き合い下さり、ありがとうございました。
【参考文献】
・伊藤ヒロ『異世界誕生 2006』(講談社ラノベ文庫、2019年9月発売)
・細谷正充「異世界転生へのアンチテーゼ小説? 伊藤ヒロ『異世界誕生 2006』が投げかけるもの」(リアルサウンド ブック、2019年10月14日)
・前島賢「「異世界転生もの」誕生の瞬間に思いを馳せたくなるラノベ 伊藤ヒロ「異世界誕生 2006」」(『朝日新聞』2019年9月21日付、好書好日)
・「伊藤ヒロ『異世界誕生2006』――ライトノベルの新境地を拓いた作品を読みませんか?」(小説・ラノベ・アニメ・漫画の感想・おすすめブログ、2019年9月12日)
(2019年10月26日 一部加筆。また、ツイッター上で感想を下さった@amareviwer氏に感謝申し上げます。)
(2019年12月12日 一部修正)