地球が救われた未来で、僕らはまた恋をするから ― 今井楓人『救世主の命題』(その二)
こんにちは。前回(その一)に引き続き、今回も今井楓人『救世主の命題』について語ってみます。第1巻では、根暗で中二病な主人公の永野歩は、世界を救うために“憧憬”のテーゼを持つ1番目のヒロイン・春坂遥菜と付き合い、そしてすべてはリセットされました。彼女と付き合った記憶は、主人公である歩と未来から来たサポート役のルーメしか覚えていません。
第2巻と第3巻では、それぞれ“敵対”と“聖域”のテーゼを持つヒロインと関係を持つことになります。物語はどのように展開するのでしょうか。今回も、私の深く思い入れてきた作品を、ネタバレ全開で紹介いたします。どうぞご容赦ください。
―目次―
△ 救世主の命題(テーゼ) 2 | MF文庫J オフィシャルウェブサイト
3-1.“敵対”のテーゼの彼女:芹乃
早速、第2巻のストーリーを追ってみましょう。春坂遥菜と別れてから数日後くらいでしょうか、歩のサポート役のルーメから、2番目の“敵対”のテーゼを持つ女性は、華やかな女子高生モデルでクラスメイトの堀井芹乃だと告げられます。芹乃は、第1巻からちょくちょく出てくる女の子なのですが、歩にすれば、ギャルっぽい見た目や言動で、ことあるごとに彼に突っかかってくる苦手な相手に外なりません。歩のコンプレックスの対象である弟の司と仲が良いのも余計に不愉快なこと。それよりも、テーゼを得て記憶を失くしてしまった元カノの遥菜の方が気になるくらいです。主人公のうじうじした暗い性格はそう簡単には直りません。
それでも、芹乃との接触を増やすうちに、彼女の色々な面が見えてきます。最初は、演劇部のゲスト主演として、半ば押し付けられた役をめいいっぱい情熱的に演じる姿に胸が震えます。芹乃の親友であるひよりの勘違いで、歩が芹乃のことを好きだと告げられると動揺して顔を真っ赤にします。また、モデルの撮影現場では鮮烈な魅力を放っています。同時に芹乃の方も、接触することが増えた歩のことが気にかかる模様です。
芹乃が歩に敵対する理由がテーゼを得る鍵ではないか――ルーメからのアドバイスの最初の手がかりは、モデルの撮影現場でのハプニングから思いもかけず歩と芹乃がキスを交わした時に彼女が口走った言葉でした。そこから歩は、彼女の中二病疑惑に思い至ります。二人のキスは同性から孤立気味だった歩と芹乃の立場を悪くし、芹乃の危機に駆け付けたことで、第二の手がかりである彼女のおじいさんが浮かび上がります。
歩は芹乃の親友であるひよりと、芹乃のおじいさんの友人の老人(小野寺)から話を聞いて、彼女のおじいさん(淳介)が「世界を守る魔法使い」と名乗っていたことを知ります。おじいさんは、魔法とオカルトが大好きな変わり者でしたが、誰からも慕われる人でしたが、三年前に「地球を守る魔法をかけにゆかなければ」[今井:2巻143ページ]と言って家を抜け出し、山の麓で息絶えていたということでした。芹乃にとって、前髪の長い変わり者の歩は、大好きだったおじいさんを思い出させる存在だったのです。
おじいさんが経営していた喫茶店で、二人は言葉を交わします。大好きだったおじいさん。しかし、中二病によって亡くなってしまったおじいさん。そんな複雑な彼女の思いが歩に重なります。
歩の中にゆっくりと、切なさの入り交じった、優しい気持ちが込み上げてくる。
それを自覚し、戸惑いながら、歩は静かな声で言った。
「堀井のおじいさんのこと、バカみたいだなんて、僕は思わない」
芹乃が、顔を上げる。
芹乃の瞳にも、戸惑いが浮かんでいる。
「堀井にとって、おじいさんは大事な人だったんだろう。大事に思っているものを、否定したりは、しない」
歩を見つめる瞳が、うるんでゆく。[同:2巻147ページ]
芹乃は初めてのキスをハプニングにしたくない、だから責任を取って彼氏になりなさい、と彼女は言いました。こうして、ちぐはぐなカップルは誕生したのです。
3-2.おじいさんの代わりに、きみを守るよ
歩と芹乃は付き合うことになりましたが、前途は多難です。せっかくの初デートでは、歩は1番目のヒロイン遥菜と比べてしまい、芹乃も気合を入れ過ぎて空回りしてしまいます。終わってみれば「最悪」なデートでしたが、翌日にはルーメのアドバイスもあり、歩は反省をします。そうして二人は、おじいさんが経営していた喫茶店で仲直りをします。おじいさんと芹乃の温かな思い出――「魔法」が残っているここなら自分は素直になれると芹乃は言います。そして、いつかこの喫茶店を復活させることが夢なのだとも。歩は彼女の夢に共感し、二人は互いの好きな音楽を聞きあいます。二人はケンカをしながらも、少しずつ仲を深めてゆきます。
二度目のデートは上手くゆきました、途中までは。立ち寄った町唯一のデパートで、1番目のヒロイン春坂遥菜と姉の千織と鉢合わせてしまいます。芹乃は歩の想いが遥菜にあるのではと詰め寄り、歩はそれに答えることができませんでした。さらに折悪く、おじいさんの喫茶店が取り壊されることになり、芹乃は自己嫌悪と喪失感でメールで歩に別れを告げ、連絡を絶ってしまいます。このままでは、テーゼは反転してしまいます。
ここから物語は終盤へと一気に進みます。まず、歩は芹乃の親友のひよりの力を借りて芹乃の誕生日をセッティングし、次に、彼女を励ますためにルーメの力を借りておじいさんの倒れた森に「魔法」を仕掛けます。「魔法」とはただの鈴をたくさん森に吊るしただけなのですが、その音はおじいさんがかつて語った妖精の「魔法」でした。「魔法」で再び素直になれた芹乃と歩は再び恋人の絆で結ばれます。ついに“敵対”のテーゼは得られました。
心の中に、甘い、甘い、気持ちがあふれてゆく。
別れの時が、近づいている。
それを少しでも引き延ばしたくて、まだもう少しだけ、あと少しだけ、芹乃の彼氏でいたくて、芹乃の細い方を抱きしめていたくて――。
芹乃の頬に、額に、まぶたに、感情をぎりぎりまで抑えた控えめなキスを、そっと、そっと、落としてゆく。
そのたび、芹乃の体が、嬉しそうに震える。
「アルク……大好き……ずっと、彼女でいさせてね」
ああ……僕の彼女は、本当に可愛い。
「うん、セリィ」
唇の横に口づけながら、歩もまた震える声で答える。
指輪に入ったひびの奥で、光が揺れている。
これから先のストーリーは、歩と芹乃にはない。
今日、この場所で、終わりを迎える。
もっと、たくさんきみを知りたかった。
もっと、デートをしたかった。
喧嘩をして、仲直りして、もっともっと、きみを好きになりたかった。
ずっときみの彼氏で、いたかった。
抑えようとしても、抑えられない、熱い衝動。
今、息がかかるほど近くにいるこの相手を、狂おしいほどに求める気持ち。
歩の唇が、芹乃の唇をふさぐ。
今なら、わかる。
今なら、言える。
(僕は、セリィに恋をしている!)[同:2巻235-36ページ]
こうして、未来は滅びから5分の2が救われました。芹乃の記憶は失われ、歩の心のなかにだけ残りました。
4-1.“聖域”のテーゼの彼女:ひより
続いて、第3巻のストーリーを追ってみましょう。“聖域”のテーゼを持つ、三田ひよりは第2巻で主人公の歩と芹乃のあいだを取り持った、真面目で親切で善良な女の子です。しかし、歩は乗り気ではありません。1番目のヒロインの春坂遥菜や2番目のヒロインの堀井芹乃のような華やかさがないのもそうですが、何かひっかかるものがあって、恋愛対象として彼女を見ることができないのです。
それでもルーメの手引きで、夏休みの子供会の宿泊行事のボランティアとして参加し、同じくボランティアとして来ているひよりと接触を持つことになります。優しい性格のひよりが子供たち上手く接するなか、歩は複雑な思いで彼女を眺めていたのですが、子供の一人に周囲と馴染めない昔の自分を見ているような男の子を発見しました。ひよりは男の子のことを心配して構うのですが、歩は「余計なお世話だ」と彼女を叱責してしまいます。
物語の中盤で、ひよりに対する歩の苛立ちは、誰にでも優しい彼女の姿勢を偽善だと感じることによるものだと気付きます。人間を信じるひよりと信じない歩。これに対し、ひよりは偽善者でないとルーメは否定します。未来から来たサポート役のルーメがヒロインたちへの具体的な言及をするのは初めてのことで、未来のルーメがひよりのことを知っているのではと歩は考えました。その日の夜、歩は夢を見ました。未来の世界でさらに傲慢になり人間不信を募らせた歩がひよりを見殺しにしてしまう夢です。歩はひよりと関わることにすっかり怯えてしまいます。
翌日、歩にそっくりの男の子が合宿所から失踪します。雨が降るなか、二人は男の子のことを必死で探します。ようやく見付けた男の子が、真っ直ぐひよりに駆け寄った時、歩は自分の間違いに気付きました。ひよりは「余計なお世話」ではなく、過去の自分と男の子を重ねていた自分が間違っていたとひよりに謝ります。自分がみっともないと懺悔する歩に対し、ひよりは「みっともなくなんてないよ」[今井:3巻136ページ]と言い、過去の歩をひよりが知っていること、そして彼女が歩のことを好きであることを告白します。
4-2.そんな未来を、僕は信じる
ひよりの突然の告白に、歩は戸惑います。彼女のことを愛らしいと感じるようになる一方で、なぜ彼女が自分のことを好きなのか、過去と未来の二人に何があったのか、歩には分かりません。そもそも、未来の世界でひよりを見殺しにする自分に付き合う資格はあるのだろうか、例え今の世界で彼女と付き合えたとしても記憶の改変が行われてしまうではないか――歩は煩悶します。歩は、ひよりを喪うことが怖くて怖くて堪らないのです。
そんな歩にヒロインたちは救いの手を差し伸べます。1番目のヒロイン遥菜と2番目のヒロイン芹乃が、それぞれ歩のことを励ましに来てくれました。彼女たちと恋をした記憶は、歩のことを強くしてくれます。歩はついに、ひよりと向き合う決意をルーメに伝えます。そうして歩は「僕の彼女になってください」[同:3巻189ページ]とひよりに伝えることが出来たのです。さらに彼女に聞くと、幼稚園の時に困っていたひよりを歩が助けたこと、今年の春に当時の男の子が歩だと気付いたことを教えてくれました。ひよりは、歩の優しい過去を知っていたのです。
ひよりが顔を上げ、輝くように微笑む。
髪を二つに結んだ小さな女の子の面影と、エプロンをかけた大人のひよりの面影が、今歩の目の前に立ているひよりの上で、ひとつに融け合う。
(きみは、僕の未来と現在だけじゃなく、過去にも、いたんだね)
歩が気付かなかっただけで、ずっと近くにいた女の子。
その子が、優しい声で――幸せな声で、歩を呼ぶ。
「アユくん」
いつか、別れなければいけない。
そのいつかは、そんなに遠くない。
明日かもしれない。今日かもしれない。
それでも、今このとき、二人の名前を呼びあって、笑いあえたことを、きっと後悔しない。
星がまたたく屋上で、歩はそのあと、大好きな『彼女』と、ずいぶん長い時間、いろんな話をした。[同:3巻204-05ページ]
宿泊行事から帰ると、二人はささやかなデートを繰り返し、仲を深めてゆきます。臆病で控えめな二人の、甘く優しい時間が紡がれます。けれども、何度もデートを重ねたにもかかわらず、歩はひよりにキスをすることができません。なぜなら、キスをすることでテーゼを得てしまい、彼女の記憶が失われることが怖いからです。歩の決意が揺らぎます。
物語の最終盤で、二人で花火大会に出かけます。二人の気持ちが盛り上がってキスをしようとする歩は涙を流してしまいます。心配するひよりに、歩は思わず真実を告げてしまいます。キスをするとひよりが記憶を失くしてしまうこと、自分が未来を救おうとしていること、そのために5つのテーゼを集めなくてはいけないことを。そんな荒唐無稽な歩の言葉を、ひよりは「……信じる、よ」[同:3巻227ページ]と言ってくれます。ひよりは遥菜や芹乃と歩が付き合っていたことに気付き、遥菜・芹乃・ひよりのことを本当に好きだったことを確認します。ひよりは歩の手を握り、微笑んで言います。
「アユくんのこと忘れても、絶対にまた、好きになる。だからアユくんが未来の地球を救って、役目を終えて、普通の男の子に戻ったら――そのとき、また、アユくんの彼女にしてください。他にもライバルはいるかもしれないけれど、でも、あたし、頑張るから――」
澄んだ瞳に、過去のひよりが、未来のひよりが、重なる。
いつも、歩のそばにいてくれた女の子。
みんなからのけ者にされていた歩を――恐れられていた歩を、好きになってくれた、女の子。
「きっと、そうなる。またアユくんに恋をして、またアユくんの彼女になって、アユくんと、花火を見に行くの」
歩も大好きなその女の子が、ほのぼのとした笑顔で問いかける。
「ねえ、信じてくれる?」
ずっと誰のことも信じていなかった。
信じられなかった。
けど、本当は――信じたかった。
だから、震える喉から声を絞り出して答える。
「信じる! 僕は――よりを、信じる!」[同:3巻230-31ページ]
こうして二人は口づけを交わし、未来は滅びから5分の3が救われました。物語はここで終わっています。
5.ヒロインたちの役割
以上が『救世主の命題』の第2巻・第3巻のあらすじです。このような要約で、本作の持つ魅力を伝えられているとは到底思えませんが、本作のポイントを改めて述べておきます。
第1にヒロインたちの役割について。前回(その一)も述べていることですが、1番目のヒロインである春坂遥菜は、憧れの彼女として描かれています。それは現実よりも理想の方が先行している、ある意味で地に足が着いていないヒロインです。これに対して、2番目のヒロインである堀井芹乃は、現実の男女のズレに向き合いながらの試行錯誤の恋愛です。お互いに思い通りにならず、話し合いや妥協を重ねながら歩みを進めてゆきます。芹乃にとって初めての恋であるということもその背景にあるでしょう。また、芹乃との恋を通じて、歩は周りの人間の助けを借りていることも重要です。なぜなら、主人公がヒロインとの一対一の関係ばかりでなく、様々な他人との関係を形づくる過程が含まれているからです。
3番目のヒロインである三田ひよりは、理想や思考錯誤の恋愛でなく、誤解や勘違いからの出発でもない、等身大の恋愛です。ヒロインたちのなかで唯一過去を共有しているのがその理由なのでしょう。興味深いことに、作者は「あとがき」で「ひよりは他の女の子たちと主人公を繋いでくれるポジションの子」[今井あとがき:3巻255ページ]と述べています。この意味を推測することは難しいのですが、単に好きな相手を信じるだけでなくて、他者を信じるということを教える存在だからではないかと私は考えます。
第2に記憶の消去の問題について。記憶が消えてしまう、改編されてしまうという問題は、涙を誘う物語の一つの定番です。マンガでは葉月抹茶『一週間フレンズ。』全7巻(月刊ガンガンJORKER連載、2012~15年)では、一週間で記憶がリセットされてしまうヒロインの藤宮香織との恋愛が描かれていますし、ライトノベルでは賀東招二『甘城ブリリアントパーク』既刊8巻(富士見ファンタジア文庫、2013年~)はヒロインのラティファの運命と記憶喪失が深く関わっています。その他、井上靖の自伝的小説『わが母の記』(講談社、1975年)、韓流ブームの火付け役となった韓国ドラマ『冬のソナタ』(ユン・ソクホ監督、2002年)、ゲームでは『ef - a fairy tale of the two.』(mimori、2006~08年)など数え上げれば数限りません。
このように、記憶喪失(健忘など)を扱った作品は数多あります。記憶の有無によるすれ違いや、人間関係が断ち切られてしまう問題は、物語を作るうえできわめて重要な問題です。さて、『救世主の命題』における、魔法的な運命ゆえに愛する人の記憶を消さなければならないという設定は、大ヒットした少女マンガ、高屋奈月『フルーツバスケット』(花とゆめ連載、1998~2006年)の草摩紅葉や草摩はとりのエピソードと重なります。『救世主の命題』では主人公の未来の運命が記憶消去を強いるのですが、『フルーツバスケット』では草摩家の過去の運命が記憶消去を強いているわけですね。前回述べた、物語における魔法の役割の一つである、人間の意思と願望が、それぞれ未来や過去と現在との関係のなかで立ち現れてくる物語であると言えるでしょう。
これはたまたまなのですが、今回の記事を書きながら聞いていた音楽が、岡崎律子の「For フルーツバスケット」(2001年)でした。特にアニメ版(大地丙太郎監督、スタジオディーン、2001年)は胸を締め上げられ、時に笑い時に涙する傑作だったと思います。岡崎律子の歌も、もう新しいものを聞けないと思うと本作と同様の思いに駆られます。
とはいえ、『救世主の命題』が暗示するその後の物語について、考えてみたい点はまだ残されています。あともう一回、お付き合い下さい。(続きます。)
【参考文献】
・今井楓人『救世主の命題2』(MF文庫J、2013年10月発売)
・今井楓人『救世主の命題3』(MF文庫J、2014年11月発売)