彼女の「革命」の精神 ― 仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』
こんにちは。最近の学園もののライトノベルでは、スクールカーストを題材としたものが多く見られます。渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(小学館ガガガ文庫、2011年~)が大ヒットしたことが原因でないかと思うのですが、後に続く作品は色々な味付けをして『俺ガイル』と差別化を図っています。そのなかでも、劇薬級の作品が現われ、そしてひっそりと消え去りました。それこそ、仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』全2巻(講談社ラノベ文庫、2016年)です。
私自身、この作品をどう扱ってよいのか分からず、かなり戸惑った作品なのですが、埋もれさせておくには勿体ないインパクトがあります。実はこの作品には、「革命」とは何か、「革命家」は何を抱いているのか、ということへの興味深い言及が含まれています。単なる共産趣味の作品として片付けられないその世界を論じてゆきましょう。
―目次―
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1.ヒロインはマルクス主義者あるいは、革命家!?
本作は何にもましてヒロインのキャラクター設定が強烈――マルクス主義者の革命家です。厳密には、「マルクス主義」という言葉はあまり出てこないのですが、「あとがき」では明確に語られています[仙波:1巻332ページ]。1巻の冒頭で、スクールカーストの最下層にいる高校生・白根与一は、先生にある問題生徒のもとに行くよう指示されます。主人公が向かった図書部の部室で、彼は部の廃止に反対してハンガーストライキを行う女子生徒・黒羽瑞穂と出会うことから物語が始まります。
ハンストを行う華奢な黒髪の美少女に対して、主人公は清楚を通りこして「高潔」という印象を受けます[同:1巻26ページ]。彼女と話してみると主人公がカースト下層のボッチであることをなぜだか歓迎し、図書部への入部を認めます。その後で主人公は図書部に置かれている一冊の本『腹腹時計』に気付きます――この本は1974年に新左翼セクトの一つが作った爆弾の作り方やゲリラのやり方についての教本です。また、彼女は特にチェ・ゲバラがお気に入りらしく、『ゲリラ戦争』、『革命戦争回顧録』、『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『ゲバラ日記』などの本が見付かります。恐る恐る図書部の本当の目的を尋ねる主人公に対し、彼女はこう答えます――「白根君。あなたなら『階級闘争史観』という概念を知ってるわね?」[同:1巻50ページ]。彼女の目的は何か? 瑞穂は次のように語ります。
「学校は厳然たる階級社会よ。下層階級の生徒には自由も発言権も人権もない。上層階級が下層階級を搾取する構造が固定されたスクールカーストの世界。あなたもさっき小論文[注:入部試験のこと]に似たようなことを書いたでしょう?」
「だから、なんだ……?」
「私はその階級社会をプロレタリア革命で粉砕したい」[同:1巻51ページ]
本作のヒロイン・黒羽瑞穂はスクールカーストという階級社会のを粉砕を目指す革命家なのです。ただし、彼女はテロや暴力に訴えることには反対するとも言います(現代日本なら、妥当な戦術でしょう)。 その意味では、軍事独裁に抗してゲリラ戦を行ったゲバラの革命論よりも、後期のマルクス・エンゲルスの議会革命論(さらに「社会民主主義」路線)や、20世紀半ばのユーロコミュニズムや先進国革命論の方が近いと言えるかもしれません。
こうしたヒロインの立場は、他の主な登場人物と対比されて描かれます。一人は瑞穂の幼なじみで、スクールカーストのトップに位置する中禅寺さくら。彼女は実家がお金持ち=ブルジョア(瑞穂いわく「階級の敵」)のお嬢様です。もう一人は生徒会長の五色葵で、瑞穂と葵はお互いのことを「コミュニスト君」、「ファシストさん」と呼び合って対立しています。
以上に見たように、本作『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』は、ヒロインの黒羽瑞穂とそれを取り巻くキャラクターの設定を特色とするライトノベルです。オタクの世界では、いわゆる「共産趣味」は珍しいものではなく、ライトノベルでもいくつか例を挙げることができます。
例えば、師走トオル『タクティカル・ジャッジメント』全13巻(長編9巻+短編4巻、富士見ミステリー文庫、2003~06年)に出てくる主要キャラの一人・皐月伊予は、毛沢東主義者としてコミカルに描かれています(特に『タクティカル・ジャッジメントSS』を参照)。あるいは、おかゆまさき『マルクスちゃん入門』(ダッシュ・エックス文庫、2016年)という、ヒロインがカール・マルクスという異彩を放つ奇書も存在します。
キャラクターとして魅力ある「革命家」としては、杉井光『さよならピアノソナタ』全5巻(電撃文庫、2007~09年)の神楽坂響子が挙げられるでしょう。彼女は主人公の高校の先輩であり、「人間は恋と革命のために生まれて来たんだ」(もちろん元ネタは、太宰治『斜陽』)という音楽による第6インター革命家として強烈な印象を読者に与えました[杉井2007:117ページ]。『リア充になれない俺は……』でも、ヒロインの瑞穂は音楽を愛する革命家です。第1巻では、ショパンの「革命」(Étude op.10 nº12, 1831. 「革命のエチュード」とも)を情感豊かに弾き[仙波:1巻152ページ]、第2巻ではチェ・ゲバラを哀愁的に歌ったカルロス・プエブラの「アスタ・シエンプレ」(Hasta Siempre, 1965)を口ずさみ[仙波:2巻134ページ]、さらにラストシーンで、世界で最も有名な革命賛歌であるピエール・ドジェーテルの「インターナショナル」(L'Internationale, 1888. 作詞はウジェーヌ・ポティエ、1971年)をピアノで奏でます[同:2巻287-88ページ]。どれも素晴らしい曲なので、一度聴いてみてはいかがでしょうか。
・ピアノ300年記念 根津理恵子:ショパン「革命」 - YouTube
・Hasta Siempre (日本語字幕) - YouTube
・The Internationale / piano / Harry Völker - YouTube
2.ぷろれたりあーと!または、やはり俺の革命ラブコメはまちがっている。
(a)『いでおろーぐ!』との共通性と違い
さて、共産趣味を反映したライトノベルとして昨今ヒットしている作品として、椎田十三『いでおろーぐ!』(電撃文庫、2015年~)を挙げないわけにはいかないでしょう。現在6巻を数えるなど商業的には成功を収めている点も注目されます。「リア充爆発しろ!」と反スクールカースト運動を行うヒロイン・領家薫を中心に、スクールカーストとたたかう主人公たちを描いている点で、『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』と『いでおろーぐ!』との共通性を見出すことができます。
一方で、『リア充になれない俺は……』と『いでおろーぐ!』の違いについても触れておかねばなりません。前者が主人公とヒロインを軸に話が進んでゆき、二人の関係性がストーリーとテーマを結んでいます。主人公は、登場人物たちとのやり取りのなかで瑞穂の内面を知ってゆき、さらに家庭環境にも踏み込みます。これに対して、後者は主人公とヒロインだけでなく彼らを取り巻く多くの仲間たちとともにストーリーが進んでゆきます。他方で、『いでおろーぐ!』は『リア充になれない俺は……』と違って「大性翼賛会」あるいは「謎の幼女」という敵が明確に設定されていて、これがストーリーの推進力になっています。
以上をまとめると、『いでおろーぐ!』はストーリー展開の面白さに、『リア充になれない俺は……』はストーリーとテーマの結びつきにそれぞれ重点が置かれていることが分かります。この違いは決定的であり、一読して読者にインパクトを与えるのは前者であり、繰り返し読むことのできるのは後者なのではないかと、私は思います。
(b)『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』との類似性
本作がスクールカーストを扱っているという点では、冒頭でも言及した『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』との類似性についても触れておかねばなりません。まず、登場人物の設定です。主人公の白根は根暗なボッチであり、ヒロインの瑞穂は痩身・黒髪で成績優秀な美少女、もう一人のヒロインのさくらは明るい髪の胸の大きなギャルで、『俺ガイル』の比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣を想起させます。瑞穂は魔王な姉がいなくて貧困家庭出身の雪乃といった感じでしょうか。
ストーリー展開や主人公の特性にも類似性が認められます。主人公は、遭遇する問題(第1巻では瑞穂とさくらの仲直りのため、第2巻では上位カースト内の内部対立)に対して、悪知恵をめぐらせて人間関係を操作して問題を解決を図ろうとします。そのため、主人公は自分のことを常に卑下するくせに、実は高スペックなところを指摘できるでしょう(『リア充になれない俺は……』の白根はバスケが得意)。物語に散りばめられる革命史や左翼用語のうんちくやら、溢れる「栃木」愛なども、『俺ガイル』的な雰囲気を作品に与えています。
ただし、物語としての密度の濃さは『俺ガイル』よりも『リア充になれない俺は……』の方が上回ります。実は、初期の『俺ガイル』はキャラクター小説としての性格が強いのですが、長期シリーズになるなかで登場人物たちの関係性や内面を掘り下げる物語へと変化します。アニメの1期と2期がまったく別の作品に見えるのは、単に作画の問題だけでなく、物語そのものの変化に起因しています(シリーズの長期化に伴って異なる要素がつけ加わる問題については、以前に『ソードアート・オンライン』に関わって、劇場版が原点を再発見させる で論じています)。
これに対して本作は、最初から主人公とヒロインの関係性に焦点が置かれていて、かなり濃縮された内容を持っています。とはいえ、主人公とヒロインの関係性を焦点化する割に、幼い頃に主人公がヒロインのことを救ったとする過去設定には、ややアンバランスさを感じます。また、登場人物の内面を重視するのであれば、主人公がバスケに挫折したことをより丁寧に扱う必要があったように思います。
3.変革への希望か、共産趣味か、あるいは……
(a) 作品鑑賞の二つの態度
いずれにせよ、『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』は、今日流行りのスクールカーストものに、「革命」を劇薬を投入した作品です。学生の読者にとってスクールカーストは現実的な問題であり、より上の年齢の読者層にとってはブラック企業や恋愛格差のような現代社会の病理と地続きの問題でもあります。だとしたら、この重苦しい現実の社会に捕われている読者は、スクールカーストの粉砕を目指すヒロインの姿に変革への希望を見出しているのでしょうか。それとも、あくまで読者は「共産趣味」というニッチでギークなネタを楽しみ、理念とは切り離された共産主義の言説を消費しているだけなのでしょうか。
私としてはどちらの態度も取ろうとは思いません。なぜなら、フィクションの表面的な内容を現代社会と短絡的に結び付ける態度は、きわめて主観的で偏った姿勢と言わねばなりません。また、ニヒリスティックな論評を行って、結局のところ観賞態度を批判的に更新してゆこうとしない態度は、頽廃的な姿勢であって評論の名に値しないでしょう。何よりそうした姿勢は本作に相応しいとは私には思えません。
本作のなかで、いやらしい視線を向ける主人公に対し、「あまり、私を物象化しないでくれる?」と瑞穂は冷たく言い放つ場面があります[仙波:1巻58ページ]。よく知られているように、「物象化」(ドイツ語:Versachlichung)とはマルクスが『資本論』で言った、人間と人間あるいは労働と労働の関係が、商品と商品あるいは商品とお金の関係として立ち現れてくることを指します。物象化の結果、人間は商品それ自体に価値があると思いこむわけですが、マルクスはこれを物神崇拝(ドイツ語:Fetischismus)――つまり、フェティシズムと呼びます。つまり、主人公そして読者のフェティシズムに満ちた欲望をヒロインは批判しているのです。
(b) スクールカーストはいかに語られているか
私が重視したいのは、本作のテーマであるスクールカーストがどのように語られているか、という問題です。誰もが知っているように、ヒロインが目指しているスクールカーストの粉砕は容易なことではありません。それは物語の語り部である主人公も、そしてヒロインである瑞穂も認めているところです。それにもかかわらず、どうしてスクールカーストを粉砕しようとしているのでしょうか。
第1巻のクライマックスの部分で、主人公は瑞穂に対してスクールカーストを粉砕することは不可能であり、現実味がない理想主義だと指摘します。それに対して瑞穂は、「その通りよ」と言います。
「そんなに人の視線が気になる? 笑い物にされるのが怖い?」
「……怖いっつーか、なんか、そういうの、嫌なんだ」
「私はあなたを見てるけど、笑い物にはしてないわ」[同:1巻286ページ]
スクールカーストは人間と人間の関係でありながら、動かすことのできない対象として私たちにのしかかっています。まさしく物象化の問題です。そして、瑞穂は本来の人間と人間との関係を結び直すことで、つまり主人公と瑞穂との二人の関係を改めて示すことで、主人公にスクールカーストとたたかうことを呼びかけているのです。
何が彼女をこうも駆り立てるのでしょうか。作中で中学校時代に彼女がイジメられていたこと、彼女が大切にしていたものを奪われそうになりキレて暴力沙汰に及んだこと、彼女の家庭が経済的に困窮していることでさまざまな苦労が強いられていることが明らかになります。ここからは、苦労をしたからこそ現実を変えたいと思うようになったと理解することもできるでしょう。だとすれば、ヒロインはきわめてヒューマニズムに溢れた強い人物として描かれているようにも見えます。
(c) ヒューマニズムの先にある「革命」の精神
しかし、果たして瑞穂はヒューマニズム溢れる強い人物なのでしょうか。彼女は「革命」をめぐって、こうも語っています。
「革命家は、誰かが痛い思いをしている時、自分も本気で痛いと思える人間でなければならないわ。あなたも、誰かが殴られていたら自分も殴られているのだと思いなさい」[同:1巻144ページ]
「神様は信じていないけど、私は人間を信じるわ」[仙波:2巻157ページ]
前者はホセ・マルティの有名な言葉「誠実な人間であれば、誰もが他の誰かが頬を殴られた痛みを、自分の頬に感じるに違いない」を引用したものです。また、後者は人民あるいは大衆を信頼するか、という多くの革命家が直面した問題にまつわる発言です。一見するとヒューマニズム的な言葉のように思えますが、こうした思想がラディカルに貫かれたとき、すでに古典的なヒューマニズムは内側から破壊されています。
登場人物の動きに即して具体的に見てゆきましょう。第2巻において「人間を信じる」という瑞穂と対比されているのが、主人公が「人間のことを分かっている」と評する彼女の幼馴染のさくらです。瑞穂はラディカルであるがゆえに、悩み、苦しみ、立ち止まりますが、さくらは常に周囲に気を配り誰にでも優しく接します。その意味で、古典的なヒューマニズムはむしろ、さくらの方に当たります。対する瑞穂は、かえって精神的な弱さを抱え込まざるをえません。そして、それこそが重要なのです。
本作のヒロインは、弱さと誠実さとラディカルさを一身に背負ったキャラクターです。そこには、古典的なヒューマニズムが持つ人間中心主義的で現状肯定的な姿は見られません。彼女はどれほど苦しみ、傷ついても前へ、前へ進むことでしょう。だから、彼女は「革命」の精神を持つ「革命家」たりえるのです。私たちは彼女の「高潔さ」に注目すべきなのではないでしょうか。彼女が第2巻の冒頭で引用した「第2次ハバナ宣言」は、このように結ばれています。
Esa proclama es: ¡Patria o Muerte! (われわれの叫びは、「祖国か死か」だ!)
Venceremos. (われわれは勝利する。)
【参考文献】
・仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました1』(講談社ラノベ文庫、2016年3月発売)
・仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました2』(講談社ラノベ文庫、2016年12月発売)
・杉井光『さよならピアノソナタ』(電撃文庫1515、2007年11月発売)
(2017年7月26日 一部加筆)
リア充になれない俺は革命家の同志になりました1 (講談社ラノベ文庫)
- 作者: 仙波ユウスケ,有坂あこ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/03/02
- メディア: 文庫
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リア充になれない俺は革命家の同志になりました2 (講談社ラノベ文庫)
- 作者: 仙波ユウスケ,有坂あこ
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