現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

終わってしまった物語を想像する ― 今井楓人『救世主の命題』(その三)

 こんにちは。前々回(その一)前回(その二)と今井楓人『救世主の命題』全3巻(MF文庫J、2013~14年)の紹介を行ってきましたが、今回が最後となります。さて、第1回目でも書いたように、この作品は打切り作品でありながら、話を畳むことなく終わった作品です。打切り作品でも一定の巻数を出すことができた場合は、無理矢理にでも話を畳むか、一区切りにまで持っていくわけですが、とはいえ、このような例が無いわけではありません。森橋ビンゴこの恋と、その未来。』全6巻(ファミ通文庫、2014年6月~16年11月)は、第5巻で終了が決定されていながら、読者からの応援で続巻を刊行して完結しています。むしろ話を畳まなかったことは、作者の作品への強いこだわりと、続刊への一縷の望みを感じさせますね。

 しかし、第3巻刊行から3年近くが経とうとしている現在、もう『救世主の命題』の続刊は、商業出版としては期待できないでしょう。ですから、私たちはこの物語の未来を想像(あるいは妄想)するほかありません。最終回は、この作品を心から愛する一読者の勝手な想像を通じて、この終わってしまった物語の可能性を考えてみようと思います

―目次―

f:id:b_sekidate:20170711014058j:plain

救世主の命題(テーゼ)3 | MF文庫J オフィシャルウェブサイト

6.刊行および打切りの経緯

 さて、物語を想像する前に、いくつか前提として本作の刊行および打切りの経緯を抑えておきましょう。まず、刊行の経緯については、第1巻の「あとがき」に記されています。これによると、本作の企画を提出したのが刊行の8年前(2005年頃)とのことです。刊行が遅れた理由は、「主人公が×××なのはダメ!」ということで(ちなみに、×××とは「チカン」と想像します)、企画段階で却下を食らったためのようです[今井あとがき:1巻260ページ]

 次に打ち切りの経緯ですが、これも第3巻の「あとがき」に記されています。これによると、1巻の時点で売り上げが振るわず、すでに原稿を書いていた3巻で終了することが(編集部サイドで)決定していましたが、(協議の結果、)その時点で刊行作業が進んでいる第2巻終了としました。ところが、「とある感想」を読んだ結果、そのままの内容で第3巻を刊行することにしたといいます[今井あとがき:3巻254ページ]

 

 こうした打ち切りおよび刊行の事情は、それが「あとがき」に書かれていることも含めて、やや異例のことのように思えます。作者の今井楓人は、MF文庫Jライトノベル新人賞の受賞者でもなければ、他レーベルで書いていた記録は残っていません。あるラノベ紹介ブログでは、作者は別名義で活動されていた方だと予想しており[アキネ会の日常2013]、私も同感です。MF文庫Jは2002年7月に創刊されたレーベルですから、編集者が他の業界の人に声を掛けて、2005年頃に最初の企画案が提出されたと考えることができるでしょう。

 さらに踏み込んで言えば、今井楓人はゲーム業界の関係者ではないか、というのが私の予想です。新人賞を経ていないライトノベル作家には、ゲーム業界の出身者が結構いることが知られています(例えば、新井輝枯野瑛木村航竹井10日築地俊彦豊田巧野尻抱介水城正太郎ら)。「その一」でも述べましたが、世界を救うために5人のヒロインを10ヶ月以内に攻略しなければならないという設定は、ゴールが明瞭に定められていて、小説というより美少女ゲーム(ギャルゲーとかエロゲ―とか)な印象ですね。(※追補参照)

 

7.残る二つのテーゼと6番目のヒロイン

 以上の事情を踏まえて、この物語の続きを想像してみましょう。第3巻の「あとがき」には、残るテーゼとこれに対応するヒロインの名前が挙げられています[今井あとがき:3巻254ページ]。すなわち、4番目のテーゼである“戯れ”は千織、5番目の“傾国”は心、そして6番目の“光”がルーメであると記されています。……あれ? テーゼは5つじゃなかったの? どうやら物語の最後に意外な展開を用意していたらしいのです。

 

(a) 4番目のヒロイン:春坂千織

 4番目のヒロインである春坂千織は、1番目のヒロイン(“憧憬”のテーゼ)の春坂遥菜の姉で、第1巻から第3巻まで毎回出てくる人物です。下着メーカーで働く社会人であり、グラマラスで魅惑的な美人として描かれています。初登場シーンでは、陰鬱な雰囲気を漂わせる主人公の永野歩に明るく声をかけ、遥菜の忘れ物を届けるようにお願いします。

 その後の登場シーンを確認しましょう。第1巻では、遥菜の会話や記憶のなかで出てきて、遥菜の相談相手で彼女の主人公に対する恋心を指摘しています。第2巻では、2番目のヒロイン(“敵対”のテーゼ)の堀井芹乃と主人公がデート中に遥菜とともに鉢合わせし、芹乃が動揺する一幕があります。さらに第3巻では、宿泊行事の時に仕事中の千織と鉢合わせし、スタイル抜群で肉感的な水着姿を披露し、さらには下着姿で主人公に接して3番目のヒロイン(“聖域”のテーゼ)のひよりの誤解を誘う一幕もあります。

 こうして見ると、男子高生である主人公をドキドキさせるばかりでなく、他のヒロインたちの動揺を誘うシーンで千織が登場してきたことが分かります。彼女の色っぽさにくらくらしながら、「モテることに無自覚で天然な遥菜と違って、自分の魅力をじゅうぶんに認識していて、それを使用することを楽しんでいそうなところが、始末が悪い[今井:3巻77ページ]と歩は評しています。彼女のテーゼの“戯れ”とはそのような状態を指すのでしょうか。

 

 春坂千織がこのようなキャラクターであるならば、第4巻の想像されるストーリー展開は、歩のことを年下の男の子としてからかって接する千織をどのように本気にさせるか、となるでしょう。遥菜のときは地に足がつかない恋愛を、芹乃のときは試行錯誤の恋愛を、ひよりのときは等身大の恋愛をしていたことを踏まえると、千織とは背伸びをする恋愛をするのではないでしょうか。

 きっとそのためには、様々な人の協力と自らの努力が必要でしょう。第1巻で千織の好印象を獲得し、第2巻と第3巻で他人と接することを覚え、他人を信じることを知った歩は、千織との恋愛に振り回されながらも、真剣に向き合います。格好を付けようにも付けられない、しかし、必死で彼女と向き合い歓心を向けてもらおうとする主人公の姿を、私は想像するのです。

 

(b) 5番目のヒロイン:柏木心

 5番目のヒロインである柏木心は、とにかく謎に満ちています。他のヒロインたちは歩と積極的に関わってきますが、心だけはそうではありません。第1巻では、他の女子生徒に虐められるか弱そうで子供っぽい下級生として登場します。学校の裏庭で女子生徒に取り囲まれているところに主人公の歩は出くわし、彼の陰鬱なオーラで女子生徒たちを追い払います。同じ日陰者同士と共感した歩は、“ビビる前に、ビビらせろ”とアドバイスを書き残して去ります。第2巻では、裏庭で膝をすりむいて立ち尽くす彼女と再び出くわし、たまたま持っていた絆創膏を渡して立ち去ります。いずれの登場シーンでも、彼女は裏庭の温室に向かっています。また、名前も出ていませんが、第2巻の口絵で「心」と記されていて、これでようやく名前が判明しています。

 問題は第3巻です。ここでは彼女は直接登場しませんが、歩が見た未来の夢のなかに名前だけ出てきます。その夢では、未来の世界でさらに傲慢になり人間不信を募らせた歩がひよりを見殺しにしてしまうのですが、その時に歩が放った言葉は、「柏木心を探せ! どんな手段を使ってでも、必ず見つけ出して、連れてこい。生きてさえいれば、手足の一、二本、切り落としてもかまわない![今井:3巻111-12ページ]というものでした。これには現在の歩も慄然とします。この時点で歩は、心が誰なのかを知りません。歩と心のあいだに、いったい何があったのでしょうか

 

 彼女のテーゼである“傾国”も意味深長です。そもそも「傾国」とは、中国の歴史書漢書』巻93(外戚伝)上の孝武李夫人条に出てくる言葉です。李夫人とは、前漢の最盛期の皇帝であった武帝の妃のことで、彼女のあまりの美しさに武帝は夢中になって前漢の衰亡が始まったと記されています。また、彼女の兄の李延年は宦官と専横をほしいままにし、もう一人の兄の李広利は能力もないのに将軍の地位に就いて数多くの失敗を犯したといいます。(ちなみに中島敦の短編小説「李陵」では、李広利を救援に行ったところを匈奴に捉えられた李陵や、彼を弁護したところ怒った武帝によって宮刑に処させた友人の司馬遷が登場しています。)このように為政者を狂わせてしまうような李夫人の美しさについて、『漢書』は「一顧して人の城を傾け、再顧して人の国を傾ける」(一顧傾人城、再顧傾人国)と記しました。

 ただし、『漢書』は儒教的価値観にのっとって書かれたもので、武帝の失政や前漢の衰亡を女性である李夫人に押し付けている側面があると言われています。中国の史書には美人が国を傾けた話が数多くあり、例えば夏の桀王の妃・末喜、殷の紂王の妃・妲己西周の幽王の后・襃姒、戦国の呉王夫差の妃・西施、唐の玄宗皇帝の楊貴妃などの古い逸話、あるいは『三国志演義』の貂蝉が知られています。中唐の詩人・白居易はこの手のエピソードが好きであったのか、李夫人については「漢皇色を重んじ傾国を思ふ」と歌に詠み、楊貴妃には有名な「長恨歌」を作っています。

 こうしたことから、「傾国」とは元の意味である「国を傾ける」という意味から、「国を傾けるほどの絶世の美人」という使い方が生まれ、さらに日本ではこれらの故事に引っ掛けて、遊女や遊郭を意味する言葉としても使われるようになりました。特に類語である「傾城」は、花魁の言い換えとして用いられます。

 

 話を戻しましょう。ここで問題なのは、柏木心のテーゼである“傾国”が、「国を傾ける」、「美人」、「遊女」のいずれの意味で使われているかです。未来の支配者である歩を狂わせている人物という意味では「国を傾ける」でよさそうなのですが、それでは歩がそれほどまでに彼女に執着した理由が説明できません。歩にとって決定的に「裏切られた」と感じるような出来事があったと考えるべきでしょう。加えて、未来では心は歩のもとを去っています。このことも併せて考えなければなりません。

 “傾国”のテーゼについては、「恋をさせても、決してこちらが恋をしてはいけません[今井:1巻44ページ]と物語の最初でルーメが警告しています。「裏切られた」と感じるような出来事が起こり、そして心が歩のもとを去ってしまうことが予定されているかのようです。もしそれが「傾国」の要素にあるとすれば、「遊女」の意味においてではないかと私は想像します。

 私が想像するのは第5巻のストーリー展開は次のようなものです。第2巻の時点で歩は、虐められている心に対して同情的に感じています。恐らく、鍵となる場所――学校の裏庭にある温室で歩と心を取り結ぶことが起こるのでしょう。同時に、彼は彼女があの柏木心だということを知って逡巡することと思います。そして、歩に対して十分に恋をしていない時点では、心は何らかの過ちを温室で犯してしまう。この過ちは、男女関係についての出来事であるとともに、心が歩のもとを去らねばならない理由とも関わっていると予想できます。それを歩は「裏切られた」と感じてしまい怒り、それを乗り越えて隠された事実を知ることとなる。しかし、心は歩のもとを去らねばならない。歩はこれを受け入れる……。それは、相手の過ちと別れを受け入れる恋愛となることでしょう。

 

(c) 6番目のヒロイン:ルーメ

 当初説明されていた設定では、5人のヒロインを攻略したことで世界は救われたはずでした。しかし、実際には第6巻において“光”のテーゼとして、歩のサポート役であるルーメの名前が挙げられています。そもそも、彼女の登場こそが物語の出発点です。ルーメがヒロインとして登場するということは、この物語の秘密について種明かしがされるということでしょう。

 そもそもルーメとはどのような人物なのでしょうか。ルーメは第1巻で世界に絶望した主人公・歩の前に突如として現われます。きらきらとした長い金髪に、感情に乏しい海色の瞳、気品のある顔立ちとほっそりとした体の幻想的で美しいな少女で、彼女は「わたしはあなたに仕えるものです。過去のユア・マジェスティ[今井:1巻36ページ]と言います。未来からやって来て歩の運命を告げ、歩に正面から彼の問題点を突き付けながら、いつまでもうじうじしている歩の恋愛をサポートします。

 

 第1巻の中盤で、歩の弟である司と遥菜の仲を疑った歩は、ルーメに怒りをぶつけて、「ヒズ・マジェスティ」と呼ぶ未来の歩と「過去のユア・マジェスティ」と呼ぶ現在の歩を比べて馬鹿にしているのだろうと言い放つに至ります。それでも淡々と対応する彼女に、歩は余計に苛立つのです。ですが、第1巻の最終盤で遥菜との恋愛をなしとげて“憧憬”のテーゼを得た歩に対して、ルーメは「ユア・マジェスティ」と呼ぶようになり[今井:1巻257ページ]、その後も徐々にですが主人公に信頼を寄せてゆき、歩に感情を向けるようになる姿が描かれています。主人公も、当初は鬱陶しく思っていたルーメを見直してゆくようになります。

 それでも、未来を知っているルーメが謎の多い人物であることは変わりません。第2巻でも序盤で、5つのテーゼがどのように選ばれたか、それがヒロインたちとどのような関係にあるか、なぜルーメがそれらを知っているのかを歩がルーメに対して追及していますが、「今はお答えできません[今井:2巻54ページ]の一点張りです。実は第1巻のプロローグで、未来の歩が魔法の力で作った「最高傑作」であり、愛の欠落ゆえに敗れてしまった未来の歩に最後まで付き従っていたのがルーメであることが示唆されています。また、未来のルーメが、未来の歩に対して特別な感情を抱いていたことは間違いありません。しかし、現在の歩はそのことを知らないのです。

 

 このように、6番目のヒロインであるルーメは、未来と魔法の謎を象徴する人物です。そんな彼女をめぐる物語はどのようなものとなるでしょうか。

 まず、彼女は他のヒロインたちとは違って、恋愛の対象であることが明示されていません。主人公の能動性・積極性が発揮させる「設定」が存在しないのです。だとすれば、ルーメ側から謎を明かす可能性がありますが、あくまで彼女が忠誠を一番に誓うのは未来の歩であって、現在の歩ではありません。恋愛と人間関係に臆病な主人公が、自らの能動性・積極性を獲得してゆくというこの物語のテーマから考えれば、やはり主人公が能動的・積極的に動かねばなりません。

 私の想像では、第1巻から繰り返し出てくるもう一人の登場人物が鍵を握っていると考えます。それは、主人公の弟、永野司です。彼は歩の一つ年下で、成績優秀・スポーツ万能なイケメンで、誰からも慕われる明るい人物です。歩にとって弟は根深いコンプレックスの対象ですが、司は兄のことを気にかけており、未来でもそうした真っ直ぐな人柄は変わらない模様です。重要なのは、歩がどれほどヒロインたちから愛の力を得ようとも、彼自身の根深いコンプレックスに向き合わなければ彼の内面の問題は解決しないということです。だとすれば、ルーメと司のあいだに何らかの関係が発覚し、これに歩が向き合うというストーリー展開を想像することができるのではないでしょうか。

 

 歩が能動的・積極的に動かなければならない理由はもう一つあります。この物語のタイムリミットが、魔法が地球に襲来する3月14日とされていることです。言うまでもなく、この日はホワイトデーであり、男性が女性にアプローチする日です。自らの問題を解決した歩は、この日にルーメから6番目のテーゼである“光”を得ることになるでしょう。

 この物語のなかで、「光」は魔法が発動するときに現れます。特にヒロインたちからテーゼを得て、彼女たちの記憶の走馬燈のなかで、最終的に記憶が消される時に「光」が現われます。つまり、「光」とは魔法であり、愛の記憶であると言えるでしょう。これまでの5つのテーゼに関わる魔法と愛の記憶を支配するルーメに相応しいテーゼであると思います。

 歩が“光”のテーゼを手にするということは、未来の力である魔法と現在の力である愛の記憶の双方を手にするということです。しかし、ここで最後の問題が発生します。ルーメが未来から来た存在であるということです。これはルーメが未来に帰るか否かという単純な話ではありません。ルーメにとっては、魔法は未来の力で、愛の記憶は過去の力です。反対に、歩にとっては、魔法と愛の記憶は過去と未来が交わる地点としての現在の力です。つまり、“光”のテーゼとは、歩にとっては現在の問題であるのに対し、ルーメにとっては未来と過去の問題であるということです。だとすれば、この物語の行き着く先は、歩とルーメをめぐる過去と未来の対立を乗り越えて、価値あるものとして現在を獲得し直すことではないでしょうか。主人公の永野歩は、魔法の力を得るとともに、ヒロインたちとの愛の記憶を取り戻し、ルーメとともに現在を歩む――そんなハーレムエンドのような結末を私は想像するのです。

 

8.物語の構造と主人公の成長

 物語を最後まで想像したところで、『救世主のテーゼ』における物語の構造と主人公の成長について整理してゆきましょう。まずヒロインたちの役割について改めて整理しましょう。ここまで、何度か小括してきましたが、主人公とヒロインたちとの恋愛は次のような展開を辿ります。

 ①地に足がつかない恋愛[“憧憬”のテーゼ=遥菜]

 →②試行錯誤の恋愛[“敵対”のテーゼ=芹乃]

 →③等身大の恋愛[“聖域”のテーゼ=ひより]

(→④背伸びをする恋愛[“戯れ”のテーゼ=千織])

(→⑤過ちと別れを受け入れる恋愛[“傾国”のテーゼ=心])

(→⑥コンプレックスを乗りこえて現在を獲得すること[“光”のテーゼ=ルーメ])

改めて見ると、ヒロインを一人ずつ攻略してゆくことで物語と主人公が前に進んでゆくという、美少女ゲーム的な物語の構造を確認することができます。

 

 美少女ゲーム的な物語の構造といえば、東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』に触れないわけにはいかないでしょう。この本の論点は多岐にわたりますが、本論との関わりの範囲で論じると、ライトノベル美少女ゲームの親近性をまずは抑えておきたいと思います。その上で、東が『AIR』を論じるなかで批判的に指摘する、美少女ゲームをめぐる男性の「超家父長的」な欲望の構造に、『救世主の命題』も重なっているのかが問題となります。

 東の言う「超家父長的」な欲望とは、政治的理想や経済成長といった大きな物語によって男性の「主体性」が保証されなくなった現代において、美少女ゲームはデータベース消費的なキャラクターに萌えることで「大きな物語」を回避しながら、それでも性的欲望は温存されているということを批判的に論じたものです[東2007:310ページ以下]

 

 結論からいえば、答えはイエスでありノーです。この物語がチカンをめぐる企画として出発したように、主人公がヒロインたちに欲望を向ける=攻略するという構造そのものは全く否定できません。ただし、読者が主人公とストレートに同一化することはおおむね困難です。なぜなら、主人公は性格の暗い、うじうじした人物だからです。

 『救世主のテーゼ』に対する感想として、主人公がいつまでもうじうじしている姿に共感できない、というものが多くあったように思います。これは、東的な批評をするなら、主人公が早く精神的に成長することで、読者は主人公と同一化してヒロインに欲望を向けることを望んでいるということになるでしょう。しかし、実際にはなかなか主人公は成長せず、性格は暗く、うじうじしたままです。作者は意図的に主人公のストレートな成長を拒否しているのです。

 前々回(その一)で述べたように、主人公の永野歩は、人間なら誰もが持つような暗く淀んだ人格と感情を背負った人物として、生々しく読者の前に現れてきます。つまり、歩は読者のネガの部分を引き受ける存在です。そして、実際の人間の成長とは、ストレートに進むものでなく、道に迷い、時に後退するようなジグザグの過程に外なりません。主人公がうじうじしていて、ゆっくりとしか成長しない――そこにこの物語の可能性があるのだと思います。

 

 『救世主のテーゼ』が残念ながら完結を見ることは出来ませんでした。それでも、第3巻で終了した意義があるとすれば、過去と未来をめぐる対立のなかで、迷いながら遅々とした足取りで成長する等身大の主人公が、現在を肯定するという展望を切り開いたという点にあるのかもしれません。そう信じたいと思います。

 

おわりに

 ここまで今井楓人『救世主のテーゼ』の第1巻から第3巻までの物語からその後の物語を想像し、この物語の可能性を考えてみました。繰り返しますが、これは私の勝手な想像です。もし作者の方が見たら、ファンの気持ち悪い勝手な妄想だと思うかもしれません。それでも、私のなかにわだかまっていた妄執のようなものを文字にすることで、多少は作品への思いが整理出来たような気がします。

 この作品が第3巻で打ち切られることを知って、私はファンレターを書こうかと真剣に思い悩みました。しかし、一面では仕事が忙しかったことで、そして何よりファンレターを書くことに踏ん切りが付かなかったわけです。つまり、うじうじしていたのは私自身だったのです。

 

 ここまで、拙く独りよがりで長大な文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。これにて終わります。次回は、普通の記事とする予定です。それでは。

 

【参考文献】

・今井楓人『救世主の命題』(MF文庫J、2013年6月発売)

・今井楓人『救世主の命題2』(MF文庫J、2013年10月発売)

・今井楓人『救世主の命題3』(MF文庫J、2014年11月発売)

救世主の命題(ぼくだ) : アキネ会の日常(2013年6月30日)

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』(講談社現代新書1883、2007年3月)

 

(2017年8月19日 一部修正)

(2020年2月27日 一部修正)

 

(追補)今井楓人の正体について

 去る2018年8月18日に衝撃の情報がtwitterで流れてきました。その時の驚きの私の驚きのツイートです。

出張に出かける途中の電車で前日夜の野村先生のツイートを読んでいたのですが、ずっとドキドキが止まりませんでした。あの大好きな野村先生が!あの大好きな作品の作者だったとは!

 

 約1年ほど前に書いたこの記事で、「アキネ会の日常」の記事を引きながら今井楓人はゲーム業界出身者でないかと予想をしましたが、それは半分正解で半分間違いでした。twitterでゲームの仕事をしたことがあると野村美月さんは以前つぶやいていましたが、それが桜月やPrincess Softの村中志帆であったことが今回発覚したのです。

 村中志帆(今井楓人、野村美月) -ErogameScape-エロゲー批評空間-

 思えば、この記事のタイトルの「物語を想像する」は、“文学少女”のリスペクトですから、『救世主の命題』が野村美月さん的な物語であったと、無意識に気付いていたのかもしれません。野村先生について、機会を設けて改めて論じてみたいと考えているところです。差し当たり、本ブログの記事では「ヒストリカル・ファンタジーへの挑戦 」をお読みいただければと思います。

(2018年9月8日 追補)

地球が救われた未来で、僕らはまた恋をするから ― 今井楓人『救世主の命題』(その二)

 こんにちは。前回(その一)に引き続き、今回も今井楓人『救世主の命題』について語ってみます。第1巻では、根暗で中二病な主人公の永野歩は、世界を救うために“憧憬”のテーゼを持つ1番目のヒロイン・春坂遥菜と付き合い、そしてすべてはリセットされました。彼女と付き合った記憶は、主人公である歩と未来から来たサポート役のルーメしか覚えていません。

 第2巻と第3巻では、それぞれ“敵対”と“聖域”のテーゼを持つヒロインと関係を持つことになります。物語はどのように展開するのでしょうか。今回も、私の深く思い入れてきた作品を、ネタバレ全開で紹介いたします。どうぞご容赦ください。

―目次―

f:id:b_sekidate:20170711013452j:plain

救世主の命題(テーゼ) 2 | MF文庫J オフィシャルウェブサイト

3-1.“敵対”のテーゼの彼女:芹乃

 早速、第2巻のストーリーを追ってみましょう。春坂遥菜と別れてから数日後くらいでしょうか、歩のサポート役のルーメから、2番目の“敵対”のテーゼを持つ女性は、華やかな女子高生モデルでクラスメイトの堀井芹乃だと告げられます。芹乃は、第1巻からちょくちょく出てくる女の子なのですが、歩にすれば、ギャルっぽい見た目や言動で、ことあるごとに彼に突っかかってくる苦手な相手に外なりません。歩のコンプレックスの対象である弟の司と仲が良いのも余計に不愉快なこと。それよりも、テーゼを得て記憶を失くしてしまった元カノの遥菜の方が気になるくらいです。主人公のうじうじした暗い性格はそう簡単には直りません

 それでも、芹乃との接触を増やすうちに、彼女の色々な面が見えてきます。最初は、演劇部のゲスト主演として、半ば押し付けられた役をめいいっぱい情熱的に演じる姿に胸が震えます。芹乃の親友であるひよりの勘違いで、歩が芹乃のことを好きだと告げられると動揺して顔を真っ赤にします。また、モデルの撮影現場では鮮烈な魅力を放っています。同時に芹乃の方も、接触することが増えた歩のことが気にかかる模様です。

 

 芹乃が歩に敵対する理由がテーゼを得る鍵ではないか――ルーメからのアドバイス最初の手がかりは、モデルの撮影現場でのハプニングから思いもかけず歩と芹乃がキスを交わした時に彼女が口走った言葉でした。そこから歩は、彼女の中二病疑惑に思い至ります。二人のキスは同性から孤立気味だった歩と芹乃の立場を悪くし、芹乃の危機に駆け付けたことで、第二の手がかりである彼女のおじいさんが浮かび上がります。

 歩は芹乃の親友であるひよりと、芹乃のおじいさんの友人の老人(小野寺)から話を聞いて、彼女のおじいさん(淳介)が「世界を守る魔法使い」と名乗っていたことを知ります。おじいさんは、魔法とオカルトが大好きな変わり者でしたが、誰からも慕われる人でしたが、三年前に「地球を守る魔法をかけにゆかなければ[今井:2巻143ページ]と言って家を抜け出し、山の麓で息絶えていたということでした。芹乃にとって、前髪の長い変わり者の歩は、大好きだったおじいさんを思い出させる存在だったのです。

 おじいさんが経営していた喫茶店で、二人は言葉を交わします。大好きだったおじいさん。しかし、中二病によって亡くなってしまったおじいさん。そんな複雑な彼女の思いが歩に重なります。

 歩の中にゆっくりと、切なさの入り交じった、優しい気持ちが込み上げてくる。

 それを自覚し、戸惑いながら、歩は静かな声で言った。

「堀井のおじいさんのこと、バカみたいだなんて、僕は思わない」

 芹乃が、顔を上げる。

 芹乃の瞳にも、戸惑いが浮かんでいる。

「堀井にとって、おじいさんは大事な人だったんだろう。大事に思っているものを、否定したりは、しない」

 歩を見つめる瞳が、うるんでゆく。[同:2巻147ページ]

芹乃は初めてのキスをハプニングにしたくない、だから責任を取って彼氏になりなさい、と彼女は言いました。こうして、ちぐはぐなカップルは誕生したのです。

 

3-2.おじいさんの代わりに、きみを守るよ

 歩と芹乃は付き合うことになりましたが、前途は多難です。せっかくの初デートでは、歩は1番目のヒロイン遥菜と比べてしまい、芹乃も気合を入れ過ぎて空回りしてしまいます。終わってみれば「最悪」なデートでしたが、翌日にはルーメのアドバイスもあり、歩は反省をします。そうして二人は、おじいさんが経営していた喫茶店で仲直りをします。おじいさんと芹乃の温かな思い出――「魔法」が残っているここなら自分は素直になれると芹乃は言います。そして、いつかこの喫茶店を復活させることが夢なのだとも。歩は彼女の夢に共感し、二人は互いの好きな音楽を聞きあいます。二人はケンカをしながらも、少しずつ仲を深めてゆきます

 二度目のデートは上手くゆきました、途中までは。立ち寄った町唯一のデパートで、1番目のヒロイン春坂遥菜と姉の千織と鉢合わせてしまいます。芹乃は歩の想いが遥菜にあるのではと詰め寄り、歩はそれに答えることができませんでした。さらに折悪く、おじいさんの喫茶店が取り壊されることになり、芹乃は自己嫌悪と喪失感でメールで歩に別れを告げ、連絡を絶ってしまいます。このままでは、テーゼは反転してしまいます。

 

 ここから物語は終盤へと一気に進みます。まず、歩は芹乃の親友のひよりの力を借りて芹乃の誕生日をセッティングし、次に、彼女を励ますためにルーメの力を借りておじいさんの倒れた森に「魔法」を仕掛けます。「魔法」とはただの鈴をたくさん森に吊るしただけなのですが、その音はおじいさんがかつて語った妖精の「魔法」でした。「魔法」で再び素直になれた芹乃と歩は再び恋人の絆で結ばれます。ついに“敵対”のテーゼは得られました。

 心の中に、甘い、甘い、気持ちがあふれてゆく。

 別れの時が、近づいている。

 それを少しでも引き延ばしたくて、まだもう少しだけ、あと少しだけ、芹乃の彼氏でいたくて、芹乃の細い方を抱きしめていたくて――。

 芹乃の頬に、額に、まぶたに、感情をぎりぎりまで抑えた控えめなキスを、そっと、そっと、落としてゆく。

 そのたび、芹乃の体が、嬉しそうに震える。

アルク……大好き……ずっと、彼女でいさせてね」

 ああ……僕の彼女は、本当に可愛い。

「うん、セリィ」

 唇の横に口づけながら、歩もまた震える声で答える。

 指輪に入ったひびの奥で、光が揺れている。

 これから先のストーリーは、歩と芹乃にはない。

 今日、この場所で、終わりを迎える。

 もっと、たくさんきみを知りたかった。

 もっと、デートをしたかった。

 喧嘩をして、仲直りして、もっともっと、きみを好きになりたかった。

 ずっときみの彼氏で、いたかった。

 抑えようとしても、抑えられない、熱い衝動。

 今、息がかかるほど近くにいるこの相手を、狂おしいほどに求める気持ち。

 歩の唇が、芹乃の唇をふさぐ。

 今なら、わかる。

 今なら、言える。

 

(僕は、セリィに恋をしている!)[同:2巻235-36ページ]

こうして、未来は滅びから5分の2が救われました。芹乃の記憶は失われ、歩の心のなかにだけ残りました。

 

4-1.“聖域”のテーゼの彼女:ひより

 続いて、第3巻のストーリーを追ってみましょう。“聖域”のテーゼを持つ、三田ひよりは第2巻で主人公の歩と芹乃のあいだを取り持った、真面目で親切で善良な女の子です。しかし、歩は乗り気ではありません。1番目のヒロインの春坂遥菜や2番目のヒロインの堀井芹乃のような華やかさがないのもそうですが、何かひっかかるものがあって、恋愛対象として彼女を見ることができないのです。

 それでもルーメの手引きで、夏休みの子供会の宿泊行事のボランティアとして参加し、同じくボランティアとして来ているひよりと接触を持つことになります。優しい性格のひよりが子供たち上手く接するなか、歩は複雑な思いで彼女を眺めていたのですが、子供の一人に周囲と馴染めない昔の自分を見ているような男の子を発見しました。ひよりは男の子のことを心配して構うのですが、歩は「余計なお世話だ」と彼女を叱責してしまいます。

 

 物語の中盤で、ひよりに対する歩の苛立ちは、誰にでも優しい彼女の姿勢を偽善だと感じることによるものだと気付きます。人間を信じるひよりと信じない歩。これに対し、ひよりは偽善者でないとルーメは否定します。未来から来たサポート役のルーメがヒロインたちへの具体的な言及をするのは初めてのことで、未来のルーメがひよりのことを知っているのではと歩は考えました。その日の夜、歩は夢を見ました。未来の世界でさらに傲慢になり人間不信を募らせた歩がひよりを見殺しにしてしまう夢です。歩はひよりと関わることにすっかり怯えてしまいます。

 翌日、歩にそっくりの男の子が合宿所から失踪します。雨が降るなか、二人は男の子のことを必死で探します。ようやく見付けた男の子が、真っ直ぐひよりに駆け寄った時、歩は自分の間違いに気付きました。ひよりは「余計なお世話」ではなく、過去の自分と男の子を重ねていた自分が間違っていたとひよりに謝ります。自分がみっともないと懺悔する歩に対し、ひよりは「みっともなくなんてないよ[今井:3巻136ページ]と言い、過去の歩をひよりが知っていること、そして彼女が歩のことを好きであることを告白します

 

4-2.そんな未来を、僕は信じる

 ひよりの突然の告白に、歩は戸惑います。彼女のことを愛らしいと感じるようになる一方で、なぜ彼女が自分のことを好きなのか、過去と未来の二人に何があったのか、歩には分かりません。そもそも、未来の世界でひよりを見殺しにする自分に付き合う資格はあるのだろうか、例え今の世界で彼女と付き合えたとしても記憶の改変が行われてしまうではないか――歩は煩悶します。歩は、ひよりを喪うことが怖くて怖くて堪らないのです。

 そんな歩にヒロインたちは救いの手を差し伸べます。1番目のヒロイン遥菜と2番目のヒロイン芹乃が、それぞれ歩のことを励ましに来てくれました。彼女たちと恋をした記憶は、歩のことを強くしてくれます。歩はついに、ひよりと向き合う決意をルーメに伝えます。そうして歩は「僕の彼女になってください[同:3巻189ページ]とひよりに伝えることが出来たのです。さらに彼女に聞くと、幼稚園の時に困っていたひよりを歩が助けたこと、今年の春に当時の男の子が歩だと気付いたことを教えてくれました。ひよりは、歩の優しい過去を知っていたのです。

 ひよりが顔を上げ、輝くように微笑む。

 髪を二つに結んだ小さな女の子の面影と、エプロンをかけた大人のひよりの面影が、今歩の目の前に立ているひよりの上で、ひとつに融け合う。

(きみは、僕の未来と現在だけじゃなく、過去にも、いたんだね)

 歩が気付かなかっただけで、ずっと近くにいた女の子。

 その子が、優しい声で――幸せな声で、歩を呼ぶ。

 

「アユくん」

 

 いつか、別れなければいけない。

 そのいつかは、そんなに遠くない。

 明日かもしれない。今日かもしれない。

 それでも、今このとき、二人の名前を呼びあって、笑いあえたことを、きっと後悔しない。

 星がまたたく屋上で、歩はそのあと、大好きな『彼女』と、ずいぶん長い時間、いろんな話をした。[同:3巻204-05ページ]

 

 宿泊行事から帰ると、二人はささやかなデートを繰り返し、仲を深めてゆきます。臆病で控えめな二人の、甘く優しい時間が紡がれます。けれども、何度もデートを重ねたにもかかわらず、歩はひよりにキスをすることができません。なぜなら、キスをすることでテーゼを得てしまい、彼女の記憶が失われることが怖いからです。歩の決意が揺らぎます。

 物語の最終盤で、二人で花火大会に出かけます。二人の気持ちが盛り上がってキスをしようとする歩は涙を流してしまいます。心配するひよりに、歩は思わず真実を告げてしまいます。キスをするとひよりが記憶を失くしてしまうこと、自分が未来を救おうとしていること、そのために5つのテーゼを集めなくてはいけないことを。そんな荒唐無稽な歩の言葉を、ひよりは「……信じる、よ[同:3巻227ページ]と言ってくれます。ひよりは遥菜や芹乃と歩が付き合っていたことに気付き、遥菜・芹乃・ひよりのことを本当に好きだったことを確認します。ひよりは歩の手を握り、微笑んで言います。

「アユくんのこと忘れても、絶対にまた、好きになる。だからアユくんが未来の地球を救って、役目を終えて、普通の男の子に戻ったら――そのとき、また、アユくんの彼女にしてください。他にもライバルはいるかもしれないけれど、でも、あたし、頑張るから――」

 澄んだ瞳に、過去のひよりが、未来のひよりが、重なる。

 いつも、歩のそばにいてくれた女の子。

 みんなからのけ者にされていた歩を――恐れられていた歩を、好きになってくれた、女の子。

「きっと、そうなる。またアユくんに恋をして、またアユくんの彼女になって、アユくんと、花火を見に行くの」

 歩も大好きなその女の子が、ほのぼのとした笑顔で問いかける。

「ねえ、信じてくれる?」

 ずっと誰のことも信じていなかった。

 信じられなかった。

 けど、本当は――信じたかった。

 だから、震える喉から声を絞り出して答える。

 

「信じる! 僕は――よりを、信じる!」[同:3巻230-31ページ]

こうして二人は口づけを交わし、未来は滅びから5分の3が救われました。物語はここで終わっています。

 

5.ヒロインたちの役割

 以上が『救世主の命題』の第2巻・第3巻のあらすじです。このような要約で、本作の持つ魅力を伝えられているとは到底思えませんが、本作のポイントを改めて述べておきます。

 第1にヒロインたちの役割について。前回(その一)も述べていることですが、1番目のヒロインである春坂遥菜は、憧れの彼女として描かれています。それは現実よりも理想の方が先行している、ある意味で地に足が着いていないヒロインです。これに対して、2番目のヒロインである堀井芹乃は、現実の男女のズレに向き合いながらの試行錯誤の恋愛です。お互いに思い通りにならず、話し合いや妥協を重ねながら歩みを進めてゆきます。芹乃にとって初めての恋であるということもその背景にあるでしょう。また、芹乃との恋を通じて、歩は周りの人間の助けを借りていることも重要です。なぜなら、主人公がヒロインとの一対一の関係ばかりでなく、様々な他人との関係を形づくる過程が含まれているからです。

 3番目のヒロインである三田ひよりは、理想や思考錯誤の恋愛でなく、誤解や勘違いからの出発でもない、等身大の恋愛です。ヒロインたちのなかで唯一過去を共有しているのがその理由なのでしょう。興味深いことに、作者は「あとがき」で「ひよりは他の女の子たちと主人公を繋いでくれるポジションの子[今井あとがき:3巻255ページ]と述べています。この意味を推測することは難しいのですが、単に好きな相手を信じるだけでなくて、他者を信じるということを教える存在だからではないかと私は考えます。

 

 第2に記憶の消去の問題について。記憶が消えてしまう、改編されてしまうという問題は、涙を誘う物語の一つの定番です。マンガでは葉月抹茶一週間フレンズ。』全7巻(月刊ガンガンJORKER連載、2012~15年)では、一週間で記憶がリセットされてしまうヒロインの藤宮香織との恋愛が描かれていますし、ライトノベルでは賀東招二甘城ブリリアントパーク』既刊8巻(富士見ファンタジア文庫、2013年~)はヒロインのラティファの運命と記憶喪失が深く関わっています。その他、井上靖の自伝的小説『わが母の記』(講談社、1975年)、韓流ブームの火付け役となった韓国ドラマ『冬のソナタ』(ユン・ソクホ監督、2002年)、ゲームでは『ef - a fairy tale of the two.』(mimori、2006~08年)など数え上げれば数限りません。

 このように、記憶喪失(健忘など)を扱った作品は数多あります。記憶の有無によるすれ違いや、人間関係が断ち切られてしまう問題は、物語を作るうえできわめて重要な問題です。さて、『救世主の命題』における、魔法的な運命ゆえに愛する人の記憶を消さなければならないという設定は、大ヒットした少女マンガ、高屋奈月フルーツバスケット』(花とゆめ連載、1998~2006年)の草摩紅葉や草摩はとりのエピソードと重なります。『救世主の命題』では主人公の未来の運命が記憶消去を強いるのですが、『フルーツバスケット』では草摩家の過去の運命が記憶消去を強いているわけですね。前回述べた、物語における魔法の役割の一つである、人間の意思と願望が、それぞれ未来や過去と現在との関係のなかで立ち現れてくる物語であると言えるでしょう。

 

 これはたまたまなのですが、今回の記事を書きながら聞いていた音楽が、岡崎律子の「For フルーツバスケット」(2001年)でした。特にアニメ版(大地丙太郎監督、スタジオディーン、2001年)は胸を締め上げられ、時に笑い時に涙する傑作だったと思います。岡崎律子の歌も、もう新しいものを聞けないと思うと本作と同様の思いに駆られます。

 とはいえ、『救世主の命題』が暗示するその後の物語について、考えてみたい点はまだ残されています。あともう一回、お付き合い下さい。(続きます。)

 

【参考文献】

・今井楓人『救世主の命題2』(MF文庫J、2013年10月発売)

・今井楓人『救世主の命題3』(MF文庫J、2014年11月発売)

 

救世主の命題(テーゼ)2 (MF文庫J)

救世主の命題(テーゼ)2 (MF文庫J)

 
救世主の命題(テーゼ)3 (MF文庫J)

救世主の命題(テーゼ)3 (MF文庫J)

 
フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)

フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)

 

だから、僕は世界を救おう ― 今井楓人『救世主の命題』(その一)

 こんにちは。3ヶ月連続でPV数100件超えというのは、大変嬉しいものです。見て下さった方々、読んで下さった方々にはただただ感謝しかありません。また、累計PV数も2000件を超えました。これからも頑張ってゆきたいと思います。さて、今回はこのブログを始めた頃に発売されて、ぜひとも紹介したいと思いながら果たすことの出来なかった作品について語ってみます。

 

 今井楓人『救世主の命題〈テーゼ〉』全3巻(MF文庫J、2013~14年)は、主人公とヒロインたちをめぐる温かく切ない恋愛を描いたもので、奈月ここの優しく儚げなイラストが好印象を与える作品です。ですが残念なことに、ほとんど話題になることなく打ち切りとなってしまい、作者の今井楓人もその後作品を発表していません。もう誰も語ることのない作品かもしれません。けれども、私はこの作品が好きで好きで堪らなくて、しかし同時に、心のなかを整理することも出来ないままでいました。

 本ブログは、ライトノベルを分析的に読むことを通じて「もう一つの読み方」を考えることを目的としています。その趣旨から言えば、今回私は冷静な分析を行うことは多分できません。実際この作品を、私は今も涙なしには読めません。私は、歴史にただ埋もれてしまうよりも、少しでも語ることを選びたいのです。完全なネタバレですが、筆者の趣味にお付き合いいただければ幸いです。

―目次―

f:id:b_sekidate:20170708000240j:plain

救世主の命題(テーゼ) | MF文庫J オフィシャルウェブサイト

1-1.5つのテーゼで世界を救う

 まず、本作の設定を押さえておきましょう。舞台は春が遅れて訪れる北国(作中の描写から北東北――恐らく青森県岩手県の山に囲まれた町。人間不信で、オカルトを愛する根暗な高校生の永野歩は、初恋にこっぴどく敗れ、「世界を滅ぼしてやる」と中二病全開で呪文を唱えた。そこに突如、未来から来たという謎の少女ルーメと出会う。彼女によると、未来の世界は、救世主となる歩の「愛」の力が欠けていたことで滅びてしまうという。世界を救うには、現在の歩が「愛」を手に入れること――すなわち、5人の鍵となる女性と恋をしなければならないのだ。

 この5人の女性には、それぞれ“憧憬”、“敵対”、“聖域”、“戯れ”、“傾国”のテーゼがあり、5つの肯定的命題を手に入れることで、真実への道が示され、未来を照らす力になるのだという。そして、1番目の“憧憬”の恋の相手は、敗れた初恋の人、クラスメイトの春坂遥菜なのだ。タイムリミットは、世界に魔法が襲来する10ヶ月後の3月14日。それまでに、5つのテーゼを手に入れなくてはならない。

 

 以上のように、本作は世界を救うために5人のヒロインを10ヶ月以内に攻略しなければならないという設定です。この基本的な設定は、ゴールが明瞭に定められていて、小説というより恋愛ゲーム(ギャルゲーとかエロゲ―とか)的な内容とも言えそうですね。

 

1-2.ネクラで、自意識過剰で、そして純粋な主人公

 本作の重要なポイントは、主人公のキャラクター設定にあります。冒頭のシーンは、春坂遥菜へのラブレターを書いた歩が、遥菜に相手にされず、他の女子生徒から罵詈雑言を浴びせられるところから始まります。彼は前髪で顔がろくに見えず、暗々とした負のオーラがにじみ出る中二病のオカルト少年で、遥菜への告白も、クラスで隣の席になって優しくしてもらったことがきっかけ。話が始まる時点では、主人公とヒロインの仲は深まっておらず、ある意味で玉砕的に告白してしまいます

 周りの女子生徒から見れば、これは歩の「勘違い」に外ならず、そのため告白を察知した女子生徒たちは、遥菜には内緒で歩を取り囲んだのです。しかし、歩はこのことに気付かず、告白を自分で断らずに友達に断らせる、猫を被った酷い女として勘違いしてしまいます。歩は余計に女性不信を募らせてしまい、序盤では主人公はひらすら恨み言と自己卑下を繰り返すのです。こうした主人公の言動が一人称で語られるので、「気分が悪い」、「主人公に感情移入できない」と否定的な印象を持った読者も少なくないようですね。

 

 けれども、私は主人公のキャラクター設定に強い共感を覚えます。それはどういう点か。彼はコンプレックスの塊です。特に一つ年下に成績優秀・スポーツ万能なイケメンの弟がいて、周囲から比較されて蔑まれ、親からは無視されていると感じています。周囲の目からは、弟のお弁当は母親の愛情あふれるものとして評されるのに対して、自分は「マザコン」と言われてしまいます。主人公がオカルト趣味にふけり、周囲を見下すのは、彼のコンプレックスの裏返しに外なりません。客観的に言えば自意識過剰な人物でしょう。こうした主人公の永野歩は、人間なら誰もが持つような暗く淀んだ人格と感情を背負った人物として、生々しく読者の前に現れているのです。

 しかし、同時に彼は純粋な男子高校生でもあります。クラスの嫌われ者の歩にも優しくしてくれる天使のような美少女のことを、彼は好きで好きで堪りません。冒頭部のラブレターの一文は、彼の恥ずかしいくらいの恋心が表現されています。

春坂さんが好きです。

春坂さんのことが、もっと知りたいです。

春坂さんと仲良くなれたら、嬉しいです。[今井:1巻22ページ]

そんな想いを打ち明けながら、女子生徒に囲まれて「勘違い」を非難された歩が深く傷ついたのは当然かもしれません。そしてまた、遥菜に不信感を抱きながらも、好きという想いはそう簡単には消えません。ですから、主人公は彼女への想いを我慢しなければならないのです。愛を手に入れるように助言するルーメに対して、歩は冷たく時に苛立たしげに接します。山に囲まれた情景が繰り返され、彼の閉塞感を描写します。

 

1-3.恋の成就と破局

 物語が大きく動き出すのは、中盤でヒロインの春坂遥菜が悩みを聞き出すところからです。その時、歩が彼女にかけた言葉は、「春坂さん。辛いときは、我慢しないほうがいいよ……」、「我慢は心にも体にもよくないから[同:1巻135・37ページ]。これは今の歩自身の経験です。こうして、歩は遥菜の失恋相談にのることになり、歩の指導による丑の刻参りを通じて、主人公は彼女への誤解を解き、二人は仲を深めてゆくことになります。7日目の夜、ついに歩の手紙が遥菜に渡っていなかったことが判明し、それがラブレターであったことを告白します。

 一言一言、ひたむきに語るその声が、大好きな女の子のその声が、歩の耳に、心に、染みてゆく。(中略)

 そんな表裏のない、健全で純粋な春坂遥菜という女の子を、歩は好きになったのだ。

 休み時間に一人で暗くオカルト雑誌のページをめぐって、ぶつぶつ滅びの呪文を唱えている歪んだ自分でも、この朗らかな女の子と一緒にいれば、明るい太陽の下で笑いあえるような気がして。

 今、歩たちの上には、太陽でなく月が淡く輝いている。

 幻想的な優しい光に包まれて、遥菜がうんと緊張している顔で、尋ねる。

「永野くんは、あたしとつきあうの、嫌?」

 歩は首を横に振った。

「ううん、生まれてきて良かったと思えるくらい、嬉しい」[同:1巻182-83ページ]

この、淡く幻想的な情景は、二人のその後も暗示しています。ついに付き合うことが出来た二人は、デートに出かけて彼女の意外な一面を知り、お互いをあだ名で呼び合うようになり、学校で交際宣言までします。

 一方、二人の仲を疑うクラスメイトは、歩の長い前髪を上げた写真を撮るように遥菜に言います。しかし、自分の顔がコンプレックスであった歩は、笑い物にする気かと、強い口調で遥菜のことを拒否してしまいます。彼女の愛を本当の意味で受け入れることの出来ない歩――これでは、テーゼは反転してしまいます。

 さらにルーメから衝撃的なことが伝えられます。テーゼを手に入れるために、一度成就した恋愛はリセットされて、次のヒロインに移ることになる、と。主人公の恋は成就しても失敗しても忘れ去られる運命にあることが突き付けられるのです。迷う歩にルーメは後押しの言葉を与えます――「また、飲みこんでしまうのですか[同:1巻220ページ]。もう歩は我慢しません。物語は怒涛の勢いで最終盤に向かってゆきます。

 無垢でバカで、けど優しくて健やかで、まぶしくてあたたかい、憧れて、憧れて、憧れた、歩の春風。

 歩の初恋の女の子。

 こんな素敵な子が、僕の彼女になってくれた!(中略)

 遥菜が遥菜でよかった。

 誰かに感謝したことなんて、一度もなかった。

 でも、今だけは心からお礼を言う。

 神様、はるるんに会わせてくれてありがとう。

 お父さん、お母さん、僕に命をくれてありがとう。

 はるるんの友達も、ありがとう。(中略)

 胸を震わせ、歩は問いかけた。

 

「はるるん、世界が平和なまま、続いていったらいいと思う?」

 

 いきなりそんなことを訊かれて、遥菜は戸惑っているようだった、けど、すぐに、朗らかな声が、あたたかな風と一緒に返ってくる。

 

「うん!」

 

 迷いのないまっすぐな、善良な声!

 歩は胸が、いっぱいになった。

 世界が滅べばいいなんて、もう言えない。絶対言えない。

 力一杯、叫んだ。

 

「はるるんが、大好きだ!」[1巻236-38ページ]

こうして、未来は滅びから5分の1が救われました。遥菜の記憶は失われ、歩の心のなかにだけ残りました。はじめて歩が好きになった――はじめて歩を好きになってくれた大切な女のことのために、彼は「救世主」となることを決断したのです。

 

2.主人公とヒロインの関係、魔法の役割

 以上が『救世主の命題』第1巻のあらすじです。完全なネタバレです。しかも、冒頭に述べたように、冷静な分析もあったもんじゃありません。このまま勢いで突っ走ります。以下にこの作品のポイントを述べましょう。

 第1に主人公とヒロインの関係について。先にも指摘したように、主人公の永野歩は、人間なら誰もが持つような暗く淀んだ人格と感情を背負った人物です。それゆえに、読む人によっては不快感を抱くこともありますし、真に迫ったキャラクターとして立ち現れてくる存在でもあります。一方で、春坂遥菜は、優しくて朗らかで、明るくて純粋な、現実にはあり得ないようなキャラクターとしてヒロインは描かれます。それはなぜでしょうか。

 一つには、彼女のテーゼが“憧憬”であるということが理由です。主人公にとってはこれが初恋であり、現実に対して理想や憧れの方が先行しています。それゆえ純粋でありながら、地に足が付いていません。もう一つには、この物語が主人公の目線で語らていることです。恐らくより長く付き合えば、遥菜の生々しい部分が浮かび上がったことでしょう。実際、作中でも、プロレス好きであること、見栄や意地を張ったり悩みを姉に打ち明けたりしていることが明かされています。けれども、二人には時間がありませんでした。その結果、初恋は純粋な“憧憬”でありえたのです。

 第1巻のヒロイン・春坂遥菜の役割は、第2巻以降を読むことでより具体的に理解できます。この点は、改めて書きます。

 

 第2に物語の道具立てである魔法の役割について。『救世主の命題』の基本的な筋立ては、上に見たように、コンプレックスを抱え自意識過剰な主人公が、真実の愛を見付けるものの、記憶を消去されてしまうというもので、魔法が道具立てとして置かれています。実はこの物語の構造は、以前にみんはな10年前のことを覚えているかい?で紹介した、熊谷雅人ネクラ少女は黒魔法で恋をする』シリーズとほぼ同じ筋立てです。ちなみに、『救世主の命題』の最初の企画が出されたのが2005年頃と思われますから[今井あとがき:1巻260ページ]、時期的にはほぼ同時期の作品でもあります。

 そもそも魔法は、人間が自然に対してきわめて作為的に働きかける行為です。それゆえ、魔法が物語に組み込まれると、人間の意思と願望が具体的に立ち現れます。この点は、『救世主の命題』も『ネクラ少女は黒魔法で恋をする』も同様です。ここに物語の道具立てとしての魔法の一つの役割があります。また、魔法をめぐる物語は、世界設定と物語のテーマが密接に関わりあうようにできる点も、重要な役割と言えるでしょう。

  この点についても、第2巻・第3巻を語るなかで、詳論できると思います。もうしばし、お付き合い下さい。(続きます。)

 

【参考文献】

・今井楓人『救世主の命題』(MF文庫J、2013年6月発売)

熊谷雅人ネクラ少女は黒魔法で恋をする』(MF文庫J、2006年1月発売)

 

(2017年7月11日 一部訂正)

(2019年11月29日 一部訂正)

救世主の命題(テーゼ) (MF文庫J)

救世主の命題(テーゼ) (MF文庫J)

 
ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)