現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

だから、僕は世界を救おう ― 今井楓人『救世主の命題』(その一)

 こんにちは。3ヶ月連続でPV数100件超えというのは、大変嬉しいものです。見て下さった方々、読んで下さった方々にはただただ感謝しかありません。また、累計PV数も2000件を超えました。これからも頑張ってゆきたいと思います。さて、今回はこのブログを始めた頃に発売されて、ぜひとも紹介したいと思いながら果たすことの出来なかった作品について語ってみます。

 

 今井楓人『救世主の命題〈テーゼ〉』全3巻(MF文庫J、2013~14年)は、主人公とヒロインたちをめぐる温かく切ない恋愛を描いたもので、奈月ここの優しく儚げなイラストが好印象を与える作品です。ですが残念なことに、ほとんど話題になることなく打ち切りとなってしまい、作者の今井楓人もその後作品を発表していません。もう誰も語ることのない作品かもしれません。けれども、私はこの作品が好きで好きで堪らなくて、しかし同時に、心のなかを整理することも出来ないままでいました。

 本ブログは、ライトノベルを分析的に読むことを通じて「もう一つの読み方」を考えることを目的としています。その趣旨から言えば、今回私は冷静な分析を行うことは多分できません。実際この作品を、私は今も涙なしには読めません。私は、歴史にただ埋もれてしまうよりも、少しでも語ることを選びたいのです。完全なネタバレですが、筆者の趣味にお付き合いいただければ幸いです。

―目次―

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救世主の命題(テーゼ) | MF文庫J オフィシャルウェブサイト

1-1.5つのテーゼで世界を救う

 まず、本作の設定を押さえておきましょう。舞台は春が遅れて訪れる北国(作中の描写から北東北――恐らく青森県岩手県の山に囲まれた町。人間不信で、オカルトを愛する根暗な高校生の永野歩は、初恋にこっぴどく敗れ、「世界を滅ぼしてやる」と中二病全開で呪文を唱えた。そこに突如、未来から来たという謎の少女ルーメと出会う。彼女によると、未来の世界は、救世主となる歩の「愛」の力が欠けていたことで滅びてしまうという。世界を救うには、現在の歩が「愛」を手に入れること――すなわち、5人の鍵となる女性と恋をしなければならないのだ。

 この5人の女性には、それぞれ“憧憬”、“敵対”、“聖域”、“戯れ”、“傾国”のテーゼがあり、5つの肯定的命題を手に入れることで、真実への道が示され、未来を照らす力になるのだという。そして、1番目の“憧憬”の恋の相手は、敗れた初恋の人、クラスメイトの春坂遥菜なのだ。タイムリミットは、世界に魔法が襲来する10ヶ月後の3月14日。それまでに、5つのテーゼを手に入れなくてはならない。

 

 以上のように、本作は世界を救うために5人のヒロインを10ヶ月以内に攻略しなければならないという設定です。この基本的な設定は、ゴールが明瞭に定められていて、小説というより恋愛ゲーム(ギャルゲーとかエロゲ―とか)的な内容とも言えそうですね。

 

1-2.ネクラで、自意識過剰で、そして純粋な主人公

 本作の重要なポイントは、主人公のキャラクター設定にあります。冒頭のシーンは、春坂遥菜へのラブレターを書いた歩が、遥菜に相手にされず、他の女子生徒から罵詈雑言を浴びせられるところから始まります。彼は前髪で顔がろくに見えず、暗々とした負のオーラがにじみ出る中二病のオカルト少年で、遥菜への告白も、クラスで隣の席になって優しくしてもらったことがきっかけ。話が始まる時点では、主人公とヒロインの仲は深まっておらず、ある意味で玉砕的に告白してしまいます

 周りの女子生徒から見れば、これは歩の「勘違い」に外ならず、そのため告白を察知した女子生徒たちは、遥菜には内緒で歩を取り囲んだのです。しかし、歩はこのことに気付かず、告白を自分で断らずに友達に断らせる、猫を被った酷い女として勘違いしてしまいます。歩は余計に女性不信を募らせてしまい、序盤では主人公はひらすら恨み言と自己卑下を繰り返すのです。こうした主人公の言動が一人称で語られるので、「気分が悪い」、「主人公に感情移入できない」と否定的な印象を持った読者も少なくないようですね。

 

 けれども、私は主人公のキャラクター設定に強い共感を覚えます。それはどういう点か。彼はコンプレックスの塊です。特に一つ年下に成績優秀・スポーツ万能なイケメンの弟がいて、周囲から比較されて蔑まれ、親からは無視されていると感じています。周囲の目からは、弟のお弁当は母親の愛情あふれるものとして評されるのに対して、自分は「マザコン」と言われてしまいます。主人公がオカルト趣味にふけり、周囲を見下すのは、彼のコンプレックスの裏返しに外なりません。客観的に言えば自意識過剰な人物でしょう。こうした主人公の永野歩は、人間なら誰もが持つような暗く淀んだ人格と感情を背負った人物として、生々しく読者の前に現れているのです。

 しかし、同時に彼は純粋な男子高校生でもあります。クラスの嫌われ者の歩にも優しくしてくれる天使のような美少女のことを、彼は好きで好きで堪りません。冒頭部のラブレターの一文は、彼の恥ずかしいくらいの恋心が表現されています。

春坂さんが好きです。

春坂さんのことが、もっと知りたいです。

春坂さんと仲良くなれたら、嬉しいです。[今井:1巻22ページ]

そんな想いを打ち明けながら、女子生徒に囲まれて「勘違い」を非難された歩が深く傷ついたのは当然かもしれません。そしてまた、遥菜に不信感を抱きながらも、好きという想いはそう簡単には消えません。ですから、主人公は彼女への想いを我慢しなければならないのです。愛を手に入れるように助言するルーメに対して、歩は冷たく時に苛立たしげに接します。山に囲まれた情景が繰り返され、彼の閉塞感を描写します。

 

1-3.恋の成就と破局

 物語が大きく動き出すのは、中盤でヒロインの春坂遥菜が悩みを聞き出すところからです。その時、歩が彼女にかけた言葉は、「春坂さん。辛いときは、我慢しないほうがいいよ……」、「我慢は心にも体にもよくないから[同:1巻135・37ページ]。これは今の歩自身の経験です。こうして、歩は遥菜の失恋相談にのることになり、歩の指導による丑の刻参りを通じて、主人公は彼女への誤解を解き、二人は仲を深めてゆくことになります。7日目の夜、ついに歩の手紙が遥菜に渡っていなかったことが判明し、それがラブレターであったことを告白します。

 一言一言、ひたむきに語るその声が、大好きな女の子のその声が、歩の耳に、心に、染みてゆく。(中略)

 そんな表裏のない、健全で純粋な春坂遥菜という女の子を、歩は好きになったのだ。

 休み時間に一人で暗くオカルト雑誌のページをめぐって、ぶつぶつ滅びの呪文を唱えている歪んだ自分でも、この朗らかな女の子と一緒にいれば、明るい太陽の下で笑いあえるような気がして。

 今、歩たちの上には、太陽でなく月が淡く輝いている。

 幻想的な優しい光に包まれて、遥菜がうんと緊張している顔で、尋ねる。

「永野くんは、あたしとつきあうの、嫌?」

 歩は首を横に振った。

「ううん、生まれてきて良かったと思えるくらい、嬉しい」[同:1巻182-83ページ]

この、淡く幻想的な情景は、二人のその後も暗示しています。ついに付き合うことが出来た二人は、デートに出かけて彼女の意外な一面を知り、お互いをあだ名で呼び合うようになり、学校で交際宣言までします。

 一方、二人の仲を疑うクラスメイトは、歩の長い前髪を上げた写真を撮るように遥菜に言います。しかし、自分の顔がコンプレックスであった歩は、笑い物にする気かと、強い口調で遥菜のことを拒否してしまいます。彼女の愛を本当の意味で受け入れることの出来ない歩――これでは、テーゼは反転してしまいます。

 さらにルーメから衝撃的なことが伝えられます。テーゼを手に入れるために、一度成就した恋愛はリセットされて、次のヒロインに移ることになる、と。主人公の恋は成就しても失敗しても忘れ去られる運命にあることが突き付けられるのです。迷う歩にルーメは後押しの言葉を与えます――「また、飲みこんでしまうのですか[同:1巻220ページ]。もう歩は我慢しません。物語は怒涛の勢いで最終盤に向かってゆきます。

 無垢でバカで、けど優しくて健やかで、まぶしくてあたたかい、憧れて、憧れて、憧れた、歩の春風。

 歩の初恋の女の子。

 こんな素敵な子が、僕の彼女になってくれた!(中略)

 遥菜が遥菜でよかった。

 誰かに感謝したことなんて、一度もなかった。

 でも、今だけは心からお礼を言う。

 神様、はるるんに会わせてくれてありがとう。

 お父さん、お母さん、僕に命をくれてありがとう。

 はるるんの友達も、ありがとう。(中略)

 胸を震わせ、歩は問いかけた。

 

「はるるん、世界が平和なまま、続いていったらいいと思う?」

 

 いきなりそんなことを訊かれて、遥菜は戸惑っているようだった、けど、すぐに、朗らかな声が、あたたかな風と一緒に返ってくる。

 

「うん!」

 

 迷いのないまっすぐな、善良な声!

 歩は胸が、いっぱいになった。

 世界が滅べばいいなんて、もう言えない。絶対言えない。

 力一杯、叫んだ。

 

「はるるんが、大好きだ!」[1巻236-38ページ]

こうして、未来は滅びから5分の1が救われました。遥菜の記憶は失われ、歩の心のなかにだけ残りました。はじめて歩が好きになった――はじめて歩を好きになってくれた大切な女のことのために、彼は「救世主」となることを決断したのです。

 

2.主人公とヒロインの関係、魔法の役割

 以上が『救世主の命題』第1巻のあらすじです。完全なネタバレです。しかも、冒頭に述べたように、冷静な分析もあったもんじゃありません。このまま勢いで突っ走ります。以下にこの作品のポイントを述べましょう。

 第1に主人公とヒロインの関係について。先にも指摘したように、主人公の永野歩は、人間なら誰もが持つような暗く淀んだ人格と感情を背負った人物です。それゆえに、読む人によっては不快感を抱くこともありますし、真に迫ったキャラクターとして立ち現れてくる存在でもあります。一方で、春坂遥菜は、優しくて朗らかで、明るくて純粋な、現実にはあり得ないようなキャラクターとしてヒロインは描かれます。それはなぜでしょうか。

 一つには、彼女のテーゼが“憧憬”であるということが理由です。主人公にとってはこれが初恋であり、現実に対して理想や憧れの方が先行しています。それゆえ純粋でありながら、地に足が付いていません。もう一つには、この物語が主人公の目線で語らていることです。恐らくより長く付き合えば、遥菜の生々しい部分が浮かび上がったことでしょう。実際、作中でも、プロレス好きであること、見栄や意地を張ったり悩みを姉に打ち明けたりしていることが明かされています。けれども、二人には時間がありませんでした。その結果、初恋は純粋な“憧憬”でありえたのです。

 第1巻のヒロイン・春坂遥菜の役割は、第2巻以降を読むことでより具体的に理解できます。この点は、改めて書きます。

 

 第2に物語の道具立てである魔法の役割について。『救世主の命題』の基本的な筋立ては、上に見たように、コンプレックスを抱え自意識過剰な主人公が、真実の愛を見付けるものの、記憶を消去されてしまうというもので、魔法が道具立てとして置かれています。実はこの物語の構造は、以前にみんはな10年前のことを覚えているかい?で紹介した、熊谷雅人ネクラ少女は黒魔法で恋をする』シリーズとほぼ同じ筋立てです。ちなみに、『救世主の命題』の最初の企画が出されたのが2005年頃と思われますから[今井あとがき:1巻260ページ]、時期的にはほぼ同時期の作品でもあります。

 そもそも魔法は、人間が自然に対してきわめて作為的に働きかける行為です。それゆえ、魔法が物語に組み込まれると、人間の意思と願望が具体的に立ち現れます。この点は、『救世主の命題』も『ネクラ少女は黒魔法で恋をする』も同様です。ここに物語の道具立てとしての魔法の一つの役割があります。また、魔法をめぐる物語は、世界設定と物語のテーマが密接に関わりあうようにできる点も、重要な役割と言えるでしょう。

  この点についても、第2巻・第3巻を語るなかで、詳論できると思います。もうしばし、お付き合い下さい。(続きます。)

 

【参考文献】

・今井楓人『救世主の命題』(MF文庫J、2013年6月発売)

熊谷雅人ネクラ少女は黒魔法で恋をする』(MF文庫J、2006年1月発売)

 

(2017年7月11日 一部訂正)

(2019年11月29日 一部訂正)

救世主の命題(テーゼ) (MF文庫J)

救世主の命題(テーゼ) (MF文庫J)

 
ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

 

素晴らしきものへの愛を語る ― トネ・コーケン『スーパーカブ』

 こんにちは。こんな零細で長文で小難しいブログでも、続けていれば多少は読んでくれる人がいるのでしょうか、先月に引き続き今月もPV数が100を超えました。とても嬉しく思います。この投稿で記事がようやく10件目になりますが、まずは月刊ペースでじっくり取り組んでゆくつもりです。

 さて、今回はトネ・コーケン『スーパーカブ』(角川スニーカー文庫20320、2017年5月発売)を取り上げます。いわゆる「売れ線」のライトノベルとは方向性がまったく異なり、地味で、丁寧で、そして愛に溢れた作品です。このような作風のライトノベルと重ね合わせることで、小説『スーパーカブ』の位置づけを探ってみようと思います。よろしくお付き合い下さい。

―目次―

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スニーカー文庫特設サイト - 小説スーパーカブ

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1.何も持たない一人ぼっちの少女は、スーパーカブを手に入れた。

 小説『スーパーカブ』で取り上げられる「スーパーカブ」とは、ホンダ(本田技研工業)の小型オートバイの名称で、1958年に発売されてから今日まで世界で約1億台が生産されている、世界で一番売れたオートバイのことです。日本の法令では原動機付自転車(原付)あるいは小型自動二輪(原付二種)として扱われ、生活・通勤などの一般向けの用途から、新聞・郵便配達、交番のパトロールバイク、営業・集金・出前などの事業向けの用途など幅広く使われています。

 本作の主人公・小熊は、山梨県の田舎の高校に通う、地味で野暮ったい女子高生。通学用にと中古のスーパーカブを手に入れるところから物語は始まります。父親は亡くなり、母親が失踪してひとりぼっちの小熊は、奨学金を貰いながらつつましく暮らしていましたが、スーパーカブを手に入れることで、ちょっとずつ世界が広がってゆきます

 もう一人の登場人物は、小熊の同級生で同じくスーパーカブ(郵便配達用の「郵政カブ」の払い下げ)に乗る長身で美人の礼子。礼子は父親は政治家、母親は自営業をしていて、山梨の別荘に一人で暮らしているお嬢様として、小熊とは対照的に描かれています。スーパーカブに情熱を傾けている礼子は、カブ乗りの先輩としてしばしば小熊を手助けし、カブへの情熱を語ります。

 

 本作のストーリーは、小熊の視点を中心としながら、スーパーカブをめぐる二人の少女たちの物語として展開してゆきます。ただし、全50話に分かれており、一話あたり5~6頁ほどで「連作掌編」といった印象を受けます[この世はすべて事もなし]。地の文は、登場人物の視線に寄り添いながら三人称で淡々と物語が語られており、主人公による一人称が多い近年の傾向とは異なります。また、登場人物の心情は基本的に行動に即して語られており、悩み苦しむキャラクターの内面を掘り下げるような作品でもありません。情景描写も過剰でなく、山梨県北杜市(旧北巨摩郡武川村)を中心とした南アルプス山麓から甲府盆地にかけての風景や、暑さ涼しさや通り雨などの自然の変化が物語に起伏を与えています。

 したがって、小説『スーパーカブ』は、いわゆるライトノベルっぽい作品というより、文芸っぽい印象を読者に与える作品となっています。もともと、KADOKAWAなどを中心に運営されているカクヨム発祥の小説ですから、ライトノベルの読者や近年の動向とは無関係に書かれているのは当然なのかもしれません。博によるイラストからして、「萌え」のようなものとは距離を置いた、丁寧にものと風景が書き込まれたイラストです。

 

2.地味で、丁寧で、愛に溢れた作品たち

(a) 二人の女の子の物語

 以前に『ネクラ少女は黒魔法で恋をする』の紹介をした際、いわゆるライトノベルでは女性主人公の作品は少ないことを指摘しました。統計を取ったことはありませんが、実感としては1割どころか、5%にも満たないかもしれません。さらに言えば、女の子が主人公でヒットした作品はさらに少数です。富士見ファンタジア文庫の『デート・ア・ライブ』で知られる橘公司は、「――そう。女主人公です。基本的に売れづらくなるため担当編集からよほどの理由がない限り書いちゃ駄目と言われている封印指定主人公です。」とあるところで書いているほどです(橘公司はデビュー作の『蒼穹のカルマ』全8巻、富士見ファンタジア文庫、2009~12年が女主人公)[橘2016:309ページ]

 

 そんな数少ない女性主人公の作品のなかでも、小説『スーパーカブ』と同じく二人の女の子に焦点を当てた作品があります。入間人間安達としまむら』(既刊7巻、電撃文庫、2013年~)です。タイトル通り、安達としまむらという二人の女子高生が登場人物で、二人の日常と交流が描かれています。ただし、こちらは安達がしまむらに対して恋愛感情を抱くようになるので、百合ものとしてカテゴライズされることが多いようです。

 『安達としまむら』と比べたとき、小説『スーパーカブ』は、萌えでもなければ百合でもない展開であると言うことができます。ライトノベル的な特徴に乏しい地味さが際立ちます。小熊と礼子の二人はお昼ご飯を一緒に食べる関係ですが、普段から一緒にいるような普通の「友達」ではありません。ですが、スーパーカブを通じてつながっています。

 同じカブ乗り。それはもしかしたら同じクラスでお喋りをする、友達とかいうものよりも濃い関係かもしれない。[トネ:101ページ]

重要なのは、小熊が一般的な意味で他人とコミュニケーションを取るのが苦手な人物であるという点です。それでも趣味を通じてつながることができると、小熊は実感します。この部分をめぐる心理描写は非常に地味なのですが(つまり劇的でない)、この物語のなかで大きな位置を占めている部分です。読者をハラハラさせるような『安達としまむら』の展開に対して、登場人物の変化と魅力を伝えることを通じて小説『スーパーカブ』は展開してゆくのです。

(b) 乗り物への愛着

 小説『スーパーカブ』は、タイトルから分かるようにスーパーカブへの並々ならぬ愛着が伝わります。若者のクルマ離れという話を聞くように、現在の日本では自動車やオートバイは生活の手段であって、熱を入れるのは一部の趣味の者という状況になっています。ですから、小説としてスーパーカブを描くとき、著者には特にオートバイに興味のない人にも興味を持ってもらうようにしなければなりません。

 さて、オートバイが登場する代表的なライトノベルとしては、時雨沢恵一キノの旅』(既刊20巻、電撃文庫、2000年~)が思いつくでしょう。ライトノベルが広まるうえで大きな役割を果たしたこの大ヒットシリーズは、時雨沢恵一の銃とバイクへの愛の上に成り立っています。しかし同時に、この作品のなかでモトラド(注:二輪車。空を飛ばないものだけを指す)はキャラクター化されており、あまり比較対象になりません。

 この他にも、ライトノベルには賀東招二神野オキナ築地俊彦深見真などミリタリーなどの趣味全開の書き手は数多くいますし、やや珍しい例としては豊田巧の鉄道趣味もよく知られています。

 

 こうした趣味は、多くの場合、実際には本物を手に入れることが出来ないか、きわめて困難なもので、憧れをもって眺めるものであるように思います。これに対して、クルマはオートバイは手に入れることは、一定のお金さえ用意すれば難しいものではありません。都市化が進みモノが溢れてしまい、さらに経済格差が広がったなかで、若者のクルマやオートバイへの関心は薄れてしまったのです。

 ここで橋本紡の『空色ヒッチハイカー』(新潮社、2006年;新潮文庫、2009年)について見ておきましょう。橋本紡は、ライトノベル出身ながら文芸に進出した作家ですが、ライトノベルを「現代軽文学」としてより広く捉えようという本ブログの趣旨から言えば、取り上げるに値する対象だと考えます。さて、この作品に登場するの自動車はアメリカの往年の名車キャデラックで、主人公は必ずしもクルマそのものに興味はありません。むしろ、クルマが紡ぐ見知らぬ人々との関係がこの物語の軸となります。

 

 こうした状況のなかで、本作の著者はどのようにスーパーカブを描いているのでしょうか。確かにスーパーカブは小熊に新たな出会いをもたらしてくれますが、彼女自身は見知らぬ人々と交流するタイプの人間ではなりません。むしろ、ポイントは徹底したリアリズムであり、生活に根ざした存在としてスーパーカブを丁寧に取り扱われています。

 箱とカゴをつけたカブで帰路につく小熊。これからは何でもこのカブで運ぶことが出来る。

 自分の体がとても軽く、自由になったという思いは、バッグを背負っていないという理由だけではないだろう。

 帰り道で小熊は、ずっと笑っていた。[トネ:75ページ]

 主人公の小熊という名前も重要です。そもそも、cubとはクマやライオンといった猛獣の子供を指すアメリカ英語で、まさしく「小熊」に外なりません。したがって、小熊という人物は、彼女の存在の次元でスーパーカブと結びついた人物として登場するのです。

 そして、彼女の変化と魅力を伝えることは、スーパーカブを生活に根ざした存在として丁寧に描くことと固く結びついているのです。ここに、小説『スーパーカブ』が、興味のない人でもスーパーカブのことが好きになってしまう仕掛けが含まれていると言えるでしょう。

(c) 素晴らしき日々

 小説『スーパーカブ』を考えるうえで、もう一作品を紹介します。一二三スイ『世界の終わり、素晴らしき日々より』(全3巻、電撃文庫、2012~13年)です。あまり有名な作品ではありませんが、二人の少女がピックアップトラックに乗って旅をする話です。そのあらすじは、「世界の終わり」を迎えて人類と文明が衰退してしまった世界で、棒キャンディーと拳銃を持ち歩く17歳の冷静なコウちゃんと、スケッチブックを持ち歩く12歳のチィが出会い、ともに旅をする物語です。

 「世界の終わり」はしばしばライトノベルに現われる世界設定です。田中ロミオの『人類は衰退しました』(全11巻、ガガガ文庫、2007年5月~2016年9月)や、最近では枯野瑛の『終末なにしてますか?』シリーズ(既刊10巻、角川スニーカー文庫、2014年11月~)などが有名です。こうした「世界の終わり」を扱う作品群では、登場人物の生活が印象的に描かれることが多いように思います。考えてみれば、「世界」の終焉あるいは崩壊とは日常生活とそれを取り巻く社会が崩壊したことに外ならず、生活すなわち生きることが切実な問題として浮かび上がります。それゆえ、『世界の終わり、素晴らしき日々より』は、二人の少女がトラックで旅をしながら、彼女たちの生活のありようが丁寧に描かれることになります。

 そもそも人が生活することは、二つの局面から成り立ちます。一つは居を構えて、ひと所に住むこと。「家族もの」の作品でよく見られます。もう一つは生活の糧を得るために移動すること。こちらは「家族もの」ではネガティヴに描かれることが多いですが、大人になる=自らの力で生活を営むようになるとは、移動することと密接に関わりあっています

 

 小説『スーパーカブ』は、「世界の終わり」でもなんでもありませんが、主人公の小熊は母親が失踪することで家族生活が崩壊し、特に経済的に立ちゆかなくなります。そして、「生きること」がむき出しの問題となって、早く大人にならなければならなくなったとき、移動することが重要な問題として立ち現れるのです。そして、物語のなかにこうした内的構造を持つがゆえに、移動するもの=スーパーカブへの愛着は、生活するもの=人が生きることへの愛情と分かちがたく結びつきます。

 このような小説『スーパーカブ』のテーマは、まず序盤で、小熊とスーパーカブとの出会いと生活の変化として丁寧に描かれます。中盤では、視点が入れ替わり礼子の富士登山のエピソードがありますが、ここでも彼女が生きることとスーパーカブへの愛着との結びつきが深く結びつきます。そして、終盤では小熊は箱根越えを経ることで移動することの内実を経験することになります。つまり、テーマが変奏されながら繰り返す形となっているのです。実に巧みなストーリー構成であると言えるでしょう。

 

3.生きることの生々しさ

 この作品の生きることにには、若干の留意点があることにも触れておかねばなりません。小説『スーパーカブ』の世界は、終わってしまった世界ではないのですから、人々の生活は社会に規定されています。母親が失踪したことで経済的に行き詰まった小熊は、奨学金を借りて生活をしています。海外の奨学金は返済不要であるのが普通ですが、日本のほとんどの奨学金は返済をしなければならない、いわばスカラーシップというよりローンとしての性格を持っています。しかし、事実上の孤児となってしまった彼女には返済の道が非常に険しいものがあります。

 続刊が刊行されるとしたら、小熊の大学生編についてもいずれ描かれるでしょうが、学費と生活費の問題はさらに深刻化するはずですカクヨム版の方は未見です)。このような生きるづらい社会に登場人物が取り囲まれていることを忘れるわけにはゆきません。

 

 生きることの生々しさは、物語の最終盤で、やはりスーパーカブを通じて小熊のモノローグによって語られています。やや長いですが、紹介しましょう。

 礼子は小熊より経験もスキルもあるカブ乗りだけど、カブを感傷的に捉えすぎるところがあると思った。機械が進化し、新しく優れたものになることに意固地に背を向けている。

 でも、礼子とカブを通じて知り合った小熊には、彼女が新しいカブから目をそらしつつ、なにやら気になる様子でチラチラ盗み見していることもわかった。もしかしたら礼子はあと数年もすれば、嫌っていた新しいカブに乗るようになるのかもしれない。

 礼子のカブへの接し方は、カブのことを大事に愛でるぬいぐるみじゃなく、毎日気兼ねなく使う道具だと思っている小熊とは違う。きっとそれはカブの数だけある違い。

 その違いは、これから変わっていくのかもしれない。小熊も礼子も。[トネ:280ページ]

ここでは、小熊がカブと生活を深く結びつけて認識していることが改めて確認されています。それとともに、礼子のカブへの思い入れを小熊目線で分析しながら、それ自体も生きることを通じて変化するだろうことを予期しています。この変化は抽象的なものでなく、むしろ生々しいものです。愛を語ることは抽象的なことではなく、その対象の素晴らしさを生々しく語ることであるのだと思わされた、そんな地味で、丁寧で、愛に溢れた素敵な作品が小説『スーパーカブ』なのです。

 

【参考文献】

・トネ・コーケン『スーパーカブ』(角川スニーカー文庫20320、2017年5月発売)

入間人間安達としまむら』(電撃文庫2501、2013年3月発売)

時雨沢恵一キノの旅 -the Beautiful World-』(電撃文庫、2000年3月発売)

橘公司『いつか世界を救うために2―クオリディア・コード―』(富士見ファンタジア文庫2405、2016年1月発売)

橋本紡『空色ヒッチハイカー』(新潮社、2006年;新潮文庫、2009年)

・一二三スイ『世界の終わり、素晴らしき日々より』(電撃文庫、2012年9月発売)

この世の全てはこともなし : スーパーカブ トネ・コーケン 角川スニーカー文庫

 

(2017年7月7日 一部訂正)

(2017年11月16日 一部訂正)

スーパーカブ (角川スニーカー文庫)

スーパーカブ (角川スニーカー文庫)

 
安達としまむら (電撃文庫)

安達としまむら (電撃文庫)

 
空色ヒッチハイカー (新潮文庫)

空色ヒッチハイカー (新潮文庫)

 
世界の終わり、素晴らしき日々より (電撃文庫)

世界の終わり、素晴らしき日々より (電撃文庫)

 

彼女の「革命」の精神 ― 仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』

 こんにちは。最近の学園もののライトノベルでは、スクールカーストを題材としたものが多く見られます。渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(小学館ガガガ文庫、2011年~)が大ヒットしたことが原因でないかと思うのですが、後に続く作品は色々な味付けをして『俺ガイル』と差別化を図っています。そのなかでも、劇薬級の作品が現われ、そしてひっそりと消え去りました。それこそ、仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』全2巻(講談社ラノベ文庫、2016年)です。

 私自身、この作品をどう扱ってよいのか分からず、かなり戸惑った作品なのですが、埋もれさせておくには勿体ないインパクトがあります。実はこの作品には、「革命」とは何か、「革命家」は何を抱いているのか、ということへの興味深い言及が含まれています。単なる共産趣味の作品として片付けられないその世界を論じてゆきましょう。

―目次―

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ラノベ文庫|3月新刊の新シリーズ|講談社コミックプラス

「リア充になれない俺は革命家の同志になりました」既刊・関連作品一覧|講談社コミックプラス

1.ヒロインはマルクス主義者あるいは、革命家!?

 本作は何にもましてヒロインのキャラクター設定が強烈――マルクス主義者の革命家です。厳密には、「マルクス主義」という言葉はあまり出てこないのですが、「あとがき」では明確に語られています[仙波:1巻332ページ]。1巻の冒頭で、スクールカーストの最下層にいる高校生・白根与一は、先生にある問題生徒のもとに行くよう指示されます。主人公が向かった図書部の部室で、彼は部の廃止に反対してハンガーストライキを行う女子生徒・黒羽瑞穂と出会うことから物語が始まります。

 ハンストを行う華奢な黒髪の美少女に対して、主人公は清楚を通りこして「高潔」という印象を受けます[同:1巻26ページ]。彼女と話してみると主人公がカースト下層のボッチであることをなぜだか歓迎し、図書部への入部を認めます。その後で主人公は図書部に置かれている一冊の本『腹腹時計』に気付きます――この本は1974年に新左翼セクトの一つが作った爆弾の作り方やゲリラのやり方についての教本です。また、彼女は特にチェ・ゲバラがお気に入りらしく、『ゲリラ戦争』、『革命戦争回顧録』、『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『ゲバラ日記』などの本が見付かります。恐る恐る図書部の本当の目的を尋ねる主人公に対し、彼女はこう答えます――「白根君。あなたなら『階級闘争史観』という概念を知ってるわね?」[同:1巻50ページ]。彼女の目的は何か? 瑞穂は次のように語ります。

「学校は厳然たる階級社会よ。下層階級の生徒には自由も発言権も人権もない。上層階級が下層階級を搾取する構造が固定されたスクールカーストの世界。あなたもさっき小論文[注:入部試験のこと]に似たようなことを書いたでしょう?」

「だから、なんだ……?」

「私はその階級社会をプロレタリア革命で粉砕したい」[同:1巻51ページ]

本作のヒロイン・黒羽瑞穂はスクールカーストという階級社会のを粉砕を目指す革命家なのです。ただし、彼女はテロや暴力に訴えることには反対するとも言います(現代日本なら、妥当な戦術でしょう)。 その意味では、軍事独裁に抗してゲリラ戦を行ったゲバラの革命論よりも、後期のマルクス・エンゲルスの議会革命論(さらに「社会民主主義」路線)や、20世紀半ばのユーロコミュニズムや先進国革命論の方が近いと言えるかもしれません。

 こうしたヒロインの立場は、他の主な登場人物と対比されて描かれます。一人は瑞穂の幼なじみで、スクールカーストのトップに位置する中禅寺さくら。彼女は実家がお金持ち=ブルジョア(瑞穂いわく「階級の敵」)のお嬢様です。もう一人は生徒会長の五色葵で、瑞穂と葵はお互いのことを「コミュニスト君」、「ファシストさん」と呼び合って対立しています。

 

 以上に見たように、本作リア充になれない俺は革命家の同志になりました』は、ヒロインの黒羽瑞穂とそれを取り巻くキャラクターの設定を特色とするライトノベルです。オタクの世界では、いわゆる「共産趣味」は珍しいものではなく、ライトノベルでもいくつか例を挙げることができます。

 例えば、師走トオル『タクティカル・ジャッジメント』全13巻(長編9巻+短編4巻、富士見ミステリー文庫、2003~06年)に出てくる主要キャラの一人・皐月伊予は、毛沢東主義者としてコミカルに描かれています(特に『タクティカル・ジャッジメントSS』を参照)。あるいは、おかゆまさきマルクスちゃん入門』(ダッシュ・エックス文庫、2016年)という、ヒロインがカール・マルクスという異彩を放つ奇書も存在します。

 キャラクターとして魅力ある「革命家」としては、杉井光さよならピアノソナタ』全5巻(電撃文庫、2007~09年)の神楽坂響子が挙げられるでしょう。彼女は主人公の高校の先輩であり、「人間は恋と革命のために生まれて来たんだ(もちろん元ネタは、太宰治『斜陽』)という音楽による第6インター革命家として強烈な印象を読者に与えました[杉井2007:117ページ]。『リア充になれない俺は……』でも、ヒロインの瑞穂は音楽を愛する革命家です。第1巻では、ショパンの「革命」(Étude op.10 nº12, 1831. 「革命のエチュード」とも)を情感豊かに弾き[仙波:1巻152ページ]、第2巻ではチェ・ゲバラを哀愁的に歌ったカルロス・プエブラの「アスタ・シエンプレ」(Hasta Siempre, 1965)を口ずさみ[仙波:2巻134ページ]、さらにラストシーンで、世界で最も有名な革命賛歌であるピエール・ドジェーテルの「インターナショナル」(L'Internationale, 1888. 作詞はウジェーヌ・ポティエ、1971年)をピアノで奏でます[同:2巻287-88ページ]。どれも素晴らしい曲なので、一度聴いてみてはいかがでしょうか。

 ・ピアノ300年記念 根津理恵子:ショパン「革命」 - YouTube

 ・Hasta Siempre (日本語字幕) - YouTube

 ・The Internationale / piano / Harry Völker - YouTube

2.ぷろれたりあーと!または、やはり俺の革命ラブコメはまちがっている。

(a)『いでおろーぐ!』との共通性と違い

 さて、共産趣味を反映したライトノベルとして昨今ヒットしている作品として、椎田十三いでおろーぐ!』(電撃文庫、2015年~)を挙げないわけにはいかないでしょう。現在6巻を数えるなど商業的には成功を収めている点も注目されます。「リア充爆発しろ!」と反スクールカースト運動を行うヒロイン・領家薫を中心に、スクールカーストとたたかう主人公たちを描いている点で、『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』といでおろーぐ!』との共通性を見出すことができます。

 一方で、『リア充になれない俺は……』といでおろーぐ!』の違いについても触れておかねばなりません。前者が主人公とヒロインを軸に話が進んでゆき、二人の関係性がストーリーとテーマを結んでいます。主人公は、登場人物たちとのやり取りのなかで瑞穂の内面を知ってゆき、さらに家庭環境にも踏み込みます。これに対して、後者は主人公とヒロインだけでなく彼らを取り巻く多くの仲間たちとともにストーリーが進んでゆきます。他方で、『いでおろーぐ!』は『リア充になれない俺は……』と違って「大性翼賛会」あるいは「謎の幼女」という敵が明確に設定されていて、これがストーリーの推進力になっています。

 以上をまとめると、いでおろーぐ!』はストーリー展開の面白さに、『リア充になれない俺は……』はストーリーとテーマの結びつきにそれぞれ重点が置かれていることが分かります。この違いは決定的であり、一読して読者にインパクトを与えるのは前者であり、繰り返し読むことのできるのは後者なのではないかと、私は思います。

 

(b)『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』との類似性

 本作がスクールカーストを扱っているという点では、冒頭でも言及したやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』との類似性についても触れておかねばなりません。まず、登場人物の設定です。主人公の白根は根暗なボッチであり、ヒロインの瑞穂は痩身・黒髪で成績優秀な美少女、もう一人のヒロインのさくらは明るい髪の胸の大きなギャルで、『俺ガイル』の比企谷八幡雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣を想起させます。瑞穂は魔王な姉がいなくて貧困家庭出身の雪乃といった感じでしょうか。

 ストーリー展開や主人公の特性にも類似性が認められます。主人公は、遭遇する問題(第1巻では瑞穂とさくらの仲直りのため、第2巻では上位カースト内の内部対立)に対して、悪知恵をめぐらせて人間関係を操作して問題を解決を図ろうとします。そのため、主人公は自分のことを常に卑下するくせに、実は高スペックなところを指摘できるでしょう(『リア充になれない俺は……』の白根はバスケが得意)。物語に散りばめられる革命史や左翼用語のうんちくやら、溢れる「栃木」愛なども、『俺ガイル』的な雰囲気を作品に与えています。

  ただし、物語としての密度の濃さは『俺ガイル』よりも『リア充になれない俺は……』の方が上回ります。実は、初期の『俺ガイル』はキャラクター小説としての性格が強いのですが、長期シリーズになるなかで登場人物たちの関係性や内面を掘り下げる物語へと変化します。アニメの1期と2期がまったく別の作品に見えるのは、単に作画の問題だけでなく、物語そのものの変化に起因しています(シリーズの長期化に伴って異なる要素がつけ加わる問題については、以前に『ソードアート・オンライン』に関わって、劇場版が原点を再発見させる で論じています)。

 これに対して本作は、最初から主人公とヒロインの関係性に焦点が置かれていて、かなり濃縮された内容を持っています。とはいえ、主人公とヒロインの関係性を焦点化する割に、幼い頃に主人公がヒロインのことを救ったとする過去設定には、ややアンバランスさを感じます。また、登場人物の内面を重視するのであれば、主人公がバスケに挫折したことをより丁寧に扱う必要があったように思います。

3.変革への希望か、共産趣味か、あるいは……

(a) 作品鑑賞の二つの態度

 いずれにせよ、『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』は、今日流行りのスクールカーストものに、「革命」を劇薬を投入した作品です。学生の読者にとってスクールカーストは現実的な問題であり、より上の年齢の読者層にとってはブラック企業や恋愛格差のような現代社会の病理と地続きの問題でもあります。だとしたら、この重苦しい現実の社会に捕われている読者は、スクールカーストの粉砕を目指すヒロインの姿に変革への希望を見出しているのでしょうか。それとも、あくまで読者は「共産趣味」というニッチでギークなネタを楽しみ、理念とは切り離された共産主義の言説を消費しているだけなのでしょうか

 私としてはどちらの態度も取ろうとは思いません。なぜなら、フィクションの表面的な内容を現代社会と短絡的に結び付ける態度は、きわめて主観的で偏った姿勢と言わねばなりません。また、ニヒリスティックな論評を行って、結局のところ観賞態度を批判的に更新してゆこうとしない態度は、頽廃的な姿勢であって評論の名に値しないでしょう。何よりそうした姿勢は本作に相応しいとは私には思えません。

 本作のなかで、いやらしい視線を向ける主人公に対し、「あまり、私を物象化しないでくれる?」と瑞穂は冷たく言い放つ場面があります[仙波:1巻58ページ]。よく知られているように、「物象化」(ドイツ語:Versachlichung)とはマルクスが『資本論』で言った、人間と人間あるいは労働と労働の関係が、商品と商品あるいは商品とお金の関係として立ち現れてくることを指します。物象化の結果、人間は商品それ自体に価値があると思いこむわけですが、マルクスはこれを物神崇拝(ドイツ語:Fetischismus)――つまり、フェティシズムと呼びます。つまり、主人公そして読者のフェティシズムに満ちた欲望をヒロインは批判しているのです

 

(b) スクールカーストはいかに語られているか

 私が重視したいのは、本作のテーマであるスクールカーストがどのように語られているか、という問題です。誰もが知っているように、ヒロインが目指しているスクールカーストの粉砕は容易なことではありません。それは物語の語り部である主人公も、そしてヒロインである瑞穂も認めているところです。それにもかかわらず、どうしてスクールカーストを粉砕しようとしているのでしょうか。

 第1巻のクライマックスの部分で、主人公は瑞穂に対してスクールカーストを粉砕することは不可能であり、現実味がない理想主義だと指摘します。それに対して瑞穂は、「その通りよ」と言います。

「そんなに人の視線が気になる? 笑い物にされるのが怖い?」

「……怖いっつーか、なんか、そういうの、嫌なんだ」

「私はあなたを見てるけど、笑い物にはしてないわ」[同:1巻286ページ]

スクールカーストは人間と人間の関係でありながら、動かすことのできない対象として私たちにのしかかっています。まさしく物象化の問題です。そして、瑞穂は本来の人間と人間との関係を結び直すことで、つまり主人公と瑞穂との二人の関係を改めて示すことで、主人公にスクールカーストとたたかうことを呼びかけているのです。

  何が彼女をこうも駆り立てるのでしょうか。作中で中学校時代に彼女がイジメられていたこと、彼女が大切にしていたものを奪われそうになりキレて暴力沙汰に及んだこと、彼女の家庭が経済的に困窮していることでさまざまな苦労が強いられていることが明らかになります。ここからは、苦労をしたからこそ現実を変えたいと思うようになったと理解することもできるでしょう。だとすれば、ヒロインはきわめてヒューマニズムに溢れた強い人物として描かれているようにも見えます。

 

(c) ヒューマニズムの先にある「革命」の精神

 しかし、果たして瑞穂はヒューマニズム溢れる強い人物なのでしょうか。彼女は「革命」をめぐって、こうも語っています。

「革命家は、誰かが痛い思いをしている時、自分も本気で痛いと思える人間でなければならないわ。あなたも、誰かが殴られていたら自分も殴られているのだと思いなさい」[同:1巻144ページ]

「神様は信じていないけど、私は人間を信じるわ」[仙波:2巻157ページ]

前者はホセ・マルティの有名な言葉「誠実な人間であれば、誰もが他の誰かが頬を殴られた痛みを、自分の頬に感じるに違いない」を引用したものです。また、後者は人民あるいは大衆を信頼するか、という多くの革命家が直面した問題にまつわる発言です。一見するとヒューマニズム的な言葉のように思えますが、こうした思想がラディカルに貫かれたとき、すでに古典的なヒューマニズムは内側から破壊されています

 

 登場人物の動きに即して具体的に見てゆきましょう。第2巻において「人間を信じる」という瑞穂と対比されているのが、主人公が「人間のことを分かっている」と評する彼女の幼馴染のさくらです。瑞穂はラディカルであるがゆえに、悩み、苦しみ、立ち止まりますが、さくらは常に周囲に気を配り誰にでも優しく接します。その意味で、古典的なヒューマニズムはむしろ、さくらの方に当たります。対する瑞穂は、かえって精神的な弱さを抱え込まざるをえません。そして、それこそが重要なのです。

 本作のヒロインは、弱さと誠実さとラディカルさを一身に背負ったキャラクターです。そこには、古典的なヒューマニズムが持つ人間中心主義的で現状肯定的な姿は見られません。彼女はどれほど苦しみ、傷ついても前へ、前へ進むことでしょう。だから、彼女は「革命」の精神を持つ「革命家」たりえるのです。私たちは彼女の「高潔さ」に注目すべきなのではないでしょうか。彼女が第2巻の冒頭で引用した「第2次ハバナ宣言」は、このように結ばれています。

 Esa proclama es: ¡Patria o Muerte! (われわれの叫びは、「祖国か死か」だ!)

 Venceremos. (われわれは勝利する。)

 

【参考文献】

・仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました1』(講談社ラノベ文庫、2016年3月発売)

・仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました2』(講談社ラノベ文庫、2016年12月発売)

杉井光さよならピアノソナタ』(電撃文庫1515、2007年11月発売)

 

(2017年7月26日 一部加筆)

リア充になれない俺は革命家の同志になりました1 (講談社ラノベ文庫)

リア充になれない俺は革命家の同志になりました1 (講談社ラノベ文庫)

 
リア充になれない俺は革命家の同志になりました2 (講談社ラノベ文庫)

リア充になれない俺は革命家の同志になりました2 (講談社ラノベ文庫)