素晴らしきものへの愛を語る ― トネ・コーケン『スーパーカブ』
こんにちは。こんな零細で長文で小難しいブログでも、続けていれば多少は読んでくれる人がいるのでしょうか、先月に引き続き今月もPV数が100を超えました。とても嬉しく思います。この投稿で記事がようやく10件目になりますが、まずは月刊ペースでじっくり取り組んでゆくつもりです。
さて、今回はトネ・コーケン『スーパーカブ』(角川スニーカー文庫20320、2017年5月発売)を取り上げます。いわゆる「売れ線」のライトノベルとは方向性がまったく異なり、地味で、丁寧で、そして愛に溢れた作品です。このような作風のライトノベルと重ね合わせることで、小説『スーパーカブ』の位置づけを探ってみようと思います。よろしくお付き合い下さい。
―目次―
1.何も持たない一人ぼっちの少女は、スーパーカブを手に入れた。
小説『スーパーカブ』で取り上げられる「スーパーカブ」とは、ホンダ(本田技研工業)の小型オートバイの名称で、1958年に発売されてから今日まで世界で約1億台が生産されている、世界で一番売れたオートバイのことです。日本の法令では原動機付自転車(原付)あるいは小型自動二輪(原付二種)として扱われ、生活・通勤などの一般向けの用途から、新聞・郵便配達、交番のパトロールバイク、営業・集金・出前などの事業向けの用途など幅広く使われています。
本作の主人公・小熊は、山梨県の田舎の高校に通う、地味で野暮ったい女子高生。通学用にと中古のスーパーカブを手に入れるところから物語は始まります。父親は亡くなり、母親が失踪してひとりぼっちの小熊は、奨学金を貰いながらつつましく暮らしていましたが、スーパーカブを手に入れることで、ちょっとずつ世界が広がってゆきます。
もう一人の登場人物は、小熊の同級生で同じくスーパーカブ(郵便配達用の「郵政カブ」の払い下げ)に乗る長身で美人の礼子。礼子は父親は政治家、母親は自営業をしていて、山梨の別荘に一人で暮らしているお嬢様として、小熊とは対照的に描かれています。スーパーカブに情熱を傾けている礼子は、カブ乗りの先輩としてしばしば小熊を手助けし、カブへの情熱を語ります。
本作のストーリーは、小熊の視点を中心としながら、スーパーカブをめぐる二人の少女たちの物語として展開してゆきます。ただし、全50話に分かれており、一話あたり5~6頁ほどで「連作掌編」といった印象を受けます[この世はすべて事もなし]。地の文は、登場人物の視線に寄り添いながら三人称で淡々と物語が語られており、主人公による一人称が多い近年の傾向とは異なります。また、登場人物の心情は基本的に行動に即して語られており、悩み苦しむキャラクターの内面を掘り下げるような作品でもありません。情景描写も過剰でなく、山梨県北杜市(旧北巨摩郡武川村)を中心とした南アルプス山麓から甲府盆地にかけての風景や、暑さ涼しさや通り雨などの自然の変化が物語に起伏を与えています。
したがって、小説『スーパーカブ』は、いわゆるライトノベルっぽい作品というより、文芸っぽい印象を読者に与える作品となっています。もともと、KADOKAWAなどを中心に運営されているカクヨム発祥の小説ですから、ライトノベルの読者や近年の動向とは無関係に書かれているのは当然なのかもしれません。博によるイラストからして、「萌え」のようなものとは距離を置いた、丁寧にものと風景が書き込まれたイラストです。
2.地味で、丁寧で、愛に溢れた作品たち
(a) 二人の女の子の物語
以前に『ネクラ少女は黒魔法で恋をする』の紹介をした際、いわゆるライトノベルでは女性主人公の作品は少ないことを指摘しました。統計を取ったことはありませんが、実感としては1割どころか、5%にも満たないかもしれません。さらに言えば、女の子が主人公でヒットした作品はさらに少数です。富士見ファンタジア文庫の『デート・ア・ライブ』で知られる橘公司は、「――そう。女主人公です。基本的に売れづらくなるため担当編集からよほどの理由がない限り書いちゃ駄目と言われている封印指定主人公です。」とあるところで書いているほどです(橘公司はデビュー作の『蒼穹のカルマ』全8巻、富士見ファンタジア文庫、2009~12年が女主人公)[橘2016:309ページ]。
そんな数少ない女性主人公の作品のなかでも、小説『スーパーカブ』と同じく二人の女の子に焦点を当てた作品があります。入間人間『安達としまむら』(既刊7巻、電撃文庫、2013年~)です。タイトル通り、安達としまむらという二人の女子高生が登場人物で、二人の日常と交流が描かれています。ただし、こちらは安達がしまむらに対して恋愛感情を抱くようになるので、百合ものとしてカテゴライズされることが多いようです。
『安達としまむら』と比べたとき、小説『スーパーカブ』は、萌えでもなければ百合でもない展開であると言うことができます。ライトノベル的な特徴に乏しい地味さが際立ちます。小熊と礼子の二人はお昼ご飯を一緒に食べる関係ですが、普段から一緒にいるような普通の「友達」ではありません。ですが、スーパーカブを通じてつながっています。
同じカブ乗り。それはもしかしたら同じクラスでお喋りをする、友達とかいうものよりも濃い関係かもしれない。[トネ:101ページ]
重要なのは、小熊が一般的な意味で他人とコミュニケーションを取るのが苦手な人物であるという点です。それでも趣味を通じてつながることができると、小熊は実感します。この部分をめぐる心理描写は非常に地味なのですが(つまり劇的でない)、この物語のなかで大きな位置を占めている部分です。読者をハラハラさせるような『安達としまむら』の展開に対して、登場人物の変化と魅力を伝えることを通じて小説『スーパーカブ』は展開してゆくのです。
(b) 乗り物への愛着
小説『スーパーカブ』は、タイトルから分かるようにスーパーカブへの並々ならぬ愛着が伝わります。若者のクルマ離れという話を聞くように、現在の日本では自動車やオートバイは生活の手段であって、熱を入れるのは一部の趣味の者という状況になっています。ですから、小説としてスーパーカブを描くとき、著者には特にオートバイに興味のない人にも興味を持ってもらうようにしなければなりません。
さて、オートバイが登場する代表的なライトノベルとしては、時雨沢恵一『キノの旅』(既刊20巻、電撃文庫、2000年~)が思いつくでしょう。ライトノベルが広まるうえで大きな役割を果たしたこの大ヒットシリーズは、時雨沢恵一の銃とバイクへの愛の上に成り立っています。しかし同時に、この作品のなかでモトラド(注:二輪車。空を飛ばないものだけを指す)はキャラクター化されており、あまり比較対象になりません。
この他にも、ライトノベルには賀東招二、神野オキナ、築地俊彦、深見真などミリタリーなどの趣味全開の書き手は数多くいますし、やや珍しい例としては豊田巧の鉄道趣味もよく知られています。
こうした趣味は、多くの場合、実際には本物を手に入れることが出来ないか、きわめて困難なもので、憧れをもって眺めるものであるように思います。これに対して、クルマはオートバイは手に入れることは、一定のお金さえ用意すれば難しいものではありません。都市化が進みモノが溢れてしまい、さらに経済格差が広がったなかで、若者のクルマやオートバイへの関心は薄れてしまったのです。
ここで橋本紡の『空色ヒッチハイカー』(新潮社、2006年;新潮文庫、2009年)について見ておきましょう。橋本紡は、ライトノベル出身ながら文芸に進出した作家ですが、ライトノベルを「現代軽文学」としてより広く捉えようという本ブログの趣旨から言えば、取り上げるに値する対象だと考えます。さて、この作品に登場するの自動車はアメリカの往年の名車キャデラックで、主人公は必ずしもクルマそのものに興味はありません。むしろ、クルマが紡ぐ見知らぬ人々との関係がこの物語の軸となります。
こうした状況のなかで、本作の著者はどのようにスーパーカブを描いているのでしょうか。確かにスーパーカブは小熊に新たな出会いをもたらしてくれますが、彼女自身は見知らぬ人々と交流するタイプの人間ではなりません。むしろ、ポイントは徹底したリアリズムであり、生活に根ざした存在としてスーパーカブを丁寧に取り扱われています。
箱とカゴをつけたカブで帰路につく小熊。これからは何でもこのカブで運ぶことが出来る。
自分の体がとても軽く、自由になったという思いは、バッグを背負っていないという理由だけではないだろう。
帰り道で小熊は、ずっと笑っていた。[トネ:75ページ]
主人公の小熊という名前も重要です。そもそも、cubとはクマやライオンといった猛獣の子供を指すアメリカ英語で、まさしく「小熊」に外なりません。したがって、小熊という人物は、彼女の存在の次元でスーパーカブと結びついた人物として登場するのです。
そして、彼女の変化と魅力を伝えることは、スーパーカブを生活に根ざした存在として丁寧に描くことと固く結びついているのです。ここに、小説『スーパーカブ』が、興味のない人でもスーパーカブのことが好きになってしまう仕掛けが含まれていると言えるでしょう。
(c) 素晴らしき日々
小説『スーパーカブ』を考えるうえで、もう一作品を紹介します。一二三スイ『世界の終わり、素晴らしき日々より』(全3巻、電撃文庫、2012~13年)です。あまり有名な作品ではありませんが、二人の少女がピックアップトラックに乗って旅をする話です。そのあらすじは、「世界の終わり」を迎えて人類と文明が衰退してしまった世界で、棒キャンディーと拳銃を持ち歩く17歳の冷静なコウちゃんと、スケッチブックを持ち歩く12歳のチィが出会い、ともに旅をする物語です。
「世界の終わり」はしばしばライトノベルに現われる世界設定です。田中ロミオの『人類は衰退しました』(全11巻、ガガガ文庫、2007年5月~2016年9月)や、最近では枯野瑛の『終末なにしてますか?』シリーズ(既刊10巻、角川スニーカー文庫、2014年11月~)などが有名です。こうした「世界の終わり」を扱う作品群では、登場人物の生活が印象的に描かれることが多いように思います。考えてみれば、「世界」の終焉あるいは崩壊とは日常生活とそれを取り巻く社会が崩壊したことに外ならず、生活すなわち生きることが切実な問題として浮かび上がります。それゆえ、『世界の終わり、素晴らしき日々より』は、二人の少女がトラックで旅をしながら、彼女たちの生活のありようが丁寧に描かれることになります。
そもそも人が生活することは、二つの局面から成り立ちます。一つは居を構えて、ひと所に住むこと。「家族もの」の作品でよく見られます。もう一つは生活の糧を得るために移動すること。こちらは「家族もの」ではネガティヴに描かれることが多いですが、大人になる=自らの力で生活を営むようになるとは、移動することと密接に関わりあっています。
小説『スーパーカブ』は、「世界の終わり」でもなんでもありませんが、主人公の小熊は母親が失踪することで家族生活が崩壊し、特に経済的に立ちゆかなくなります。そして、「生きること」がむき出しの問題となって、早く大人にならなければならなくなったとき、移動することが重要な問題として立ち現れるのです。そして、物語のなかにこうした内的構造を持つがゆえに、移動するもの=スーパーカブへの愛着は、生活するもの=人が生きることへの愛情と分かちがたく結びつきます。
このような小説『スーパーカブ』のテーマは、まず序盤で、小熊とスーパーカブとの出会いと生活の変化として丁寧に描かれます。中盤では、視点が入れ替わり礼子の富士登山のエピソードがありますが、ここでも彼女が生きることとスーパーカブへの愛着との結びつきが深く結びつきます。そして、終盤では小熊は箱根越えを経ることで移動することの内実を経験することになります。つまり、テーマが変奏されながら繰り返す形となっているのです。実に巧みなストーリー構成であると言えるでしょう。
3.生きることの生々しさ
この作品の生きることにには、若干の留意点があることにも触れておかねばなりません。小説『スーパーカブ』の世界は、終わってしまった世界ではないのですから、人々の生活は社会に規定されています。母親が失踪したことで経済的に行き詰まった小熊は、奨学金を借りて生活をしています。海外の奨学金は返済不要であるのが普通ですが、日本のほとんどの奨学金は返済をしなければならない、いわばスカラーシップというよりローンとしての性格を持っています。しかし、事実上の孤児となってしまった彼女には返済の道が非常に険しいものがあります。
続刊が刊行されるとしたら、小熊の大学生編についてもいずれ描かれるでしょうが、学費と生活費の問題はさらに深刻化するはずです(カクヨム版の方は未見です)。このような生きるづらい社会に登場人物が取り囲まれていることを忘れるわけにはゆきません。
生きることの生々しさは、物語の最終盤で、やはりスーパーカブを通じて小熊のモノローグによって語られています。やや長いですが、紹介しましょう。
礼子は小熊より経験もスキルもあるカブ乗りだけど、カブを感傷的に捉えすぎるところがあると思った。機械が進化し、新しく優れたものになることに意固地に背を向けている。
でも、礼子とカブを通じて知り合った小熊には、彼女が新しいカブから目をそらしつつ、なにやら気になる様子でチラチラ盗み見していることもわかった。もしかしたら礼子はあと数年もすれば、嫌っていた新しいカブに乗るようになるのかもしれない。
礼子のカブへの接し方は、カブのことを大事に愛でるぬいぐるみじゃなく、毎日気兼ねなく使う道具だと思っている小熊とは違う。きっとそれはカブの数だけある違い。
その違いは、これから変わっていくのかもしれない。小熊も礼子も。[トネ:280ページ]
ここでは、小熊がカブと生活を深く結びつけて認識していることが改めて確認されています。それとともに、礼子のカブへの思い入れを小熊目線で分析しながら、それ自体も生きることを通じて変化するだろうことを予期しています。この変化は抽象的なものでなく、むしろ生々しいものです。愛を語ることは抽象的なことではなく、その対象の素晴らしさを生々しく語ることであるのだと思わされた、そんな地味で、丁寧で、愛に溢れた素敵な作品が小説『スーパーカブ』なのです。
【参考文献】
・トネ・コーケン『スーパーカブ』(角川スニーカー文庫20320、2017年5月発売)
・入間人間『安達としまむら』(電撃文庫2501、2013年3月発売)
・時雨沢恵一『キノの旅 -the Beautiful World-』(電撃文庫、2000年3月発売)
・橘公司『いつか世界を救うために2―クオリディア・コード―』(富士見ファンタジア文庫2405、2016年1月発売)
・橋本紡『空色ヒッチハイカー』(新潮社、2006年;新潮文庫、2009年)
・一二三スイ『世界の終わり、素晴らしき日々より』(電撃文庫、2012年9月発売)
・この世の全てはこともなし : スーパーカブ トネ・コーケン 角川スニーカー文庫
(2017年7月7日 一部訂正)
(2017年11月16日 一部訂正)
- 作者: 一二三スイ,七葉なば
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2012/09/07
- メディア: 文庫
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彼女の「革命」の精神 ― 仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』
こんにちは。最近の学園もののライトノベルでは、スクールカーストを題材としたものが多く見られます。渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(小学館ガガガ文庫、2011年~)が大ヒットしたことが原因でないかと思うのですが、後に続く作品は色々な味付けをして『俺ガイル』と差別化を図っています。そのなかでも、劇薬級の作品が現われ、そしてひっそりと消え去りました。それこそ、仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』全2巻(講談社ラノベ文庫、2016年)です。
私自身、この作品をどう扱ってよいのか分からず、かなり戸惑った作品なのですが、埋もれさせておくには勿体ないインパクトがあります。実はこの作品には、「革命」とは何か、「革命家」は何を抱いているのか、ということへの興味深い言及が含まれています。単なる共産趣味の作品として片付けられないその世界を論じてゆきましょう。
―目次―
△ 「リア充になれない俺は革命家の同志になりました」既刊・関連作品一覧|講談社コミックプラス
1.ヒロインはマルクス主義者あるいは、革命家!?
本作は何にもましてヒロインのキャラクター設定が強烈――マルクス主義者の革命家です。厳密には、「マルクス主義」という言葉はあまり出てこないのですが、「あとがき」では明確に語られています[仙波:1巻332ページ]。1巻の冒頭で、スクールカーストの最下層にいる高校生・白根与一は、先生にある問題生徒のもとに行くよう指示されます。主人公が向かった図書部の部室で、彼は部の廃止に反対してハンガーストライキを行う女子生徒・黒羽瑞穂と出会うことから物語が始まります。
ハンストを行う華奢な黒髪の美少女に対して、主人公は清楚を通りこして「高潔」という印象を受けます[同:1巻26ページ]。彼女と話してみると主人公がカースト下層のボッチであることをなぜだか歓迎し、図書部への入部を認めます。その後で主人公は図書部に置かれている一冊の本『腹腹時計』に気付きます――この本は1974年に新左翼セクトの一つが作った爆弾の作り方やゲリラのやり方についての教本です。また、彼女は特にチェ・ゲバラがお気に入りらしく、『ゲリラ戦争』、『革命戦争回顧録』、『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『ゲバラ日記』などの本が見付かります。恐る恐る図書部の本当の目的を尋ねる主人公に対し、彼女はこう答えます――「白根君。あなたなら『階級闘争史観』という概念を知ってるわね?」[同:1巻50ページ]。彼女の目的は何か? 瑞穂は次のように語ります。
「学校は厳然たる階級社会よ。下層階級の生徒には自由も発言権も人権もない。上層階級が下層階級を搾取する構造が固定されたスクールカーストの世界。あなたもさっき小論文[注:入部試験のこと]に似たようなことを書いたでしょう?」
「だから、なんだ……?」
「私はその階級社会をプロレタリア革命で粉砕したい」[同:1巻51ページ]
本作のヒロイン・黒羽瑞穂はスクールカーストという階級社会のを粉砕を目指す革命家なのです。ただし、彼女はテロや暴力に訴えることには反対するとも言います(現代日本なら、妥当な戦術でしょう)。 その意味では、軍事独裁に抗してゲリラ戦を行ったゲバラの革命論よりも、後期のマルクス・エンゲルスの議会革命論(さらに「社会民主主義」路線)や、20世紀半ばのユーロコミュニズムや先進国革命論の方が近いと言えるかもしれません。
こうしたヒロインの立場は、他の主な登場人物と対比されて描かれます。一人は瑞穂の幼なじみで、スクールカーストのトップに位置する中禅寺さくら。彼女は実家がお金持ち=ブルジョア(瑞穂いわく「階級の敵」)のお嬢様です。もう一人は生徒会長の五色葵で、瑞穂と葵はお互いのことを「コミュニスト君」、「ファシストさん」と呼び合って対立しています。
以上に見たように、本作『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』は、ヒロインの黒羽瑞穂とそれを取り巻くキャラクターの設定を特色とするライトノベルです。オタクの世界では、いわゆる「共産趣味」は珍しいものではなく、ライトノベルでもいくつか例を挙げることができます。
例えば、師走トオル『タクティカル・ジャッジメント』全13巻(長編9巻+短編4巻、富士見ミステリー文庫、2003~06年)に出てくる主要キャラの一人・皐月伊予は、毛沢東主義者としてコミカルに描かれています(特に『タクティカル・ジャッジメントSS』を参照)。あるいは、おかゆまさき『マルクスちゃん入門』(ダッシュ・エックス文庫、2016年)という、ヒロインがカール・マルクスという異彩を放つ奇書も存在します。
キャラクターとして魅力ある「革命家」としては、杉井光『さよならピアノソナタ』全5巻(電撃文庫、2007~09年)の神楽坂響子が挙げられるでしょう。彼女は主人公の高校の先輩であり、「人間は恋と革命のために生まれて来たんだ」(もちろん元ネタは、太宰治『斜陽』)という音楽による第6インター革命家として強烈な印象を読者に与えました[杉井2007:117ページ]。『リア充になれない俺は……』でも、ヒロインの瑞穂は音楽を愛する革命家です。第1巻では、ショパンの「革命」(Étude op.10 nº12, 1831. 「革命のエチュード」とも)を情感豊かに弾き[仙波:1巻152ページ]、第2巻ではチェ・ゲバラを哀愁的に歌ったカルロス・プエブラの「アスタ・シエンプレ」(Hasta Siempre, 1965)を口ずさみ[仙波:2巻134ページ]、さらにラストシーンで、世界で最も有名な革命賛歌であるピエール・ドジェーテルの「インターナショナル」(L'Internationale, 1888. 作詞はウジェーヌ・ポティエ、1971年)をピアノで奏でます[同:2巻287-88ページ]。どれも素晴らしい曲なので、一度聴いてみてはいかがでしょうか。
・ピアノ300年記念 根津理恵子:ショパン「革命」 - YouTube
・Hasta Siempre (日本語字幕) - YouTube
・The Internationale / piano / Harry Völker - YouTube
2.ぷろれたりあーと!または、やはり俺の革命ラブコメはまちがっている。
(a)『いでおろーぐ!』との共通性と違い
さて、共産趣味を反映したライトノベルとして昨今ヒットしている作品として、椎田十三『いでおろーぐ!』(電撃文庫、2015年~)を挙げないわけにはいかないでしょう。現在6巻を数えるなど商業的には成功を収めている点も注目されます。「リア充爆発しろ!」と反スクールカースト運動を行うヒロイン・領家薫を中心に、スクールカーストとたたかう主人公たちを描いている点で、『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』と『いでおろーぐ!』との共通性を見出すことができます。
一方で、『リア充になれない俺は……』と『いでおろーぐ!』の違いについても触れておかねばなりません。前者が主人公とヒロインを軸に話が進んでゆき、二人の関係性がストーリーとテーマを結んでいます。主人公は、登場人物たちとのやり取りのなかで瑞穂の内面を知ってゆき、さらに家庭環境にも踏み込みます。これに対して、後者は主人公とヒロインだけでなく彼らを取り巻く多くの仲間たちとともにストーリーが進んでゆきます。他方で、『いでおろーぐ!』は『リア充になれない俺は……』と違って「大性翼賛会」あるいは「謎の幼女」という敵が明確に設定されていて、これがストーリーの推進力になっています。
以上をまとめると、『いでおろーぐ!』はストーリー展開の面白さに、『リア充になれない俺は……』はストーリーとテーマの結びつきにそれぞれ重点が置かれていることが分かります。この違いは決定的であり、一読して読者にインパクトを与えるのは前者であり、繰り返し読むことのできるのは後者なのではないかと、私は思います。
(b)『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』との類似性
本作がスクールカーストを扱っているという点では、冒頭でも言及した『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』との類似性についても触れておかねばなりません。まず、登場人物の設定です。主人公の白根は根暗なボッチであり、ヒロインの瑞穂は痩身・黒髪で成績優秀な美少女、もう一人のヒロインのさくらは明るい髪の胸の大きなギャルで、『俺ガイル』の比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣を想起させます。瑞穂は魔王な姉がいなくて貧困家庭出身の雪乃といった感じでしょうか。
ストーリー展開や主人公の特性にも類似性が認められます。主人公は、遭遇する問題(第1巻では瑞穂とさくらの仲直りのため、第2巻では上位カースト内の内部対立)に対して、悪知恵をめぐらせて人間関係を操作して問題を解決を図ろうとします。そのため、主人公は自分のことを常に卑下するくせに、実は高スペックなところを指摘できるでしょう(『リア充になれない俺は……』の白根はバスケが得意)。物語に散りばめられる革命史や左翼用語のうんちくやら、溢れる「栃木」愛なども、『俺ガイル』的な雰囲気を作品に与えています。
ただし、物語としての密度の濃さは『俺ガイル』よりも『リア充になれない俺は……』の方が上回ります。実は、初期の『俺ガイル』はキャラクター小説としての性格が強いのですが、長期シリーズになるなかで登場人物たちの関係性や内面を掘り下げる物語へと変化します。アニメの1期と2期がまったく別の作品に見えるのは、単に作画の問題だけでなく、物語そのものの変化に起因しています(シリーズの長期化に伴って異なる要素がつけ加わる問題については、以前に『ソードアート・オンライン』に関わって、劇場版が原点を再発見させる で論じています)。
これに対して本作は、最初から主人公とヒロインの関係性に焦点が置かれていて、かなり濃縮された内容を持っています。とはいえ、主人公とヒロインの関係性を焦点化する割に、幼い頃に主人公がヒロインのことを救ったとする過去設定には、ややアンバランスさを感じます。また、登場人物の内面を重視するのであれば、主人公がバスケに挫折したことをより丁寧に扱う必要があったように思います。
3.変革への希望か、共産趣味か、あるいは……
(a) 作品鑑賞の二つの態度
いずれにせよ、『リア充になれない俺は革命家の同志になりました』は、今日流行りのスクールカーストものに、「革命」を劇薬を投入した作品です。学生の読者にとってスクールカーストは現実的な問題であり、より上の年齢の読者層にとってはブラック企業や恋愛格差のような現代社会の病理と地続きの問題でもあります。だとしたら、この重苦しい現実の社会に捕われている読者は、スクールカーストの粉砕を目指すヒロインの姿に変革への希望を見出しているのでしょうか。それとも、あくまで読者は「共産趣味」というニッチでギークなネタを楽しみ、理念とは切り離された共産主義の言説を消費しているだけなのでしょうか。
私としてはどちらの態度も取ろうとは思いません。なぜなら、フィクションの表面的な内容を現代社会と短絡的に結び付ける態度は、きわめて主観的で偏った姿勢と言わねばなりません。また、ニヒリスティックな論評を行って、結局のところ観賞態度を批判的に更新してゆこうとしない態度は、頽廃的な姿勢であって評論の名に値しないでしょう。何よりそうした姿勢は本作に相応しいとは私には思えません。
本作のなかで、いやらしい視線を向ける主人公に対し、「あまり、私を物象化しないでくれる?」と瑞穂は冷たく言い放つ場面があります[仙波:1巻58ページ]。よく知られているように、「物象化」(ドイツ語:Versachlichung)とはマルクスが『資本論』で言った、人間と人間あるいは労働と労働の関係が、商品と商品あるいは商品とお金の関係として立ち現れてくることを指します。物象化の結果、人間は商品それ自体に価値があると思いこむわけですが、マルクスはこれを物神崇拝(ドイツ語:Fetischismus)――つまり、フェティシズムと呼びます。つまり、主人公そして読者のフェティシズムに満ちた欲望をヒロインは批判しているのです。
(b) スクールカーストはいかに語られているか
私が重視したいのは、本作のテーマであるスクールカーストがどのように語られているか、という問題です。誰もが知っているように、ヒロインが目指しているスクールカーストの粉砕は容易なことではありません。それは物語の語り部である主人公も、そしてヒロインである瑞穂も認めているところです。それにもかかわらず、どうしてスクールカーストを粉砕しようとしているのでしょうか。
第1巻のクライマックスの部分で、主人公は瑞穂に対してスクールカーストを粉砕することは不可能であり、現実味がない理想主義だと指摘します。それに対して瑞穂は、「その通りよ」と言います。
「そんなに人の視線が気になる? 笑い物にされるのが怖い?」
「……怖いっつーか、なんか、そういうの、嫌なんだ」
「私はあなたを見てるけど、笑い物にはしてないわ」[同:1巻286ページ]
スクールカーストは人間と人間の関係でありながら、動かすことのできない対象として私たちにのしかかっています。まさしく物象化の問題です。そして、瑞穂は本来の人間と人間との関係を結び直すことで、つまり主人公と瑞穂との二人の関係を改めて示すことで、主人公にスクールカーストとたたかうことを呼びかけているのです。
何が彼女をこうも駆り立てるのでしょうか。作中で中学校時代に彼女がイジメられていたこと、彼女が大切にしていたものを奪われそうになりキレて暴力沙汰に及んだこと、彼女の家庭が経済的に困窮していることでさまざまな苦労が強いられていることが明らかになります。ここからは、苦労をしたからこそ現実を変えたいと思うようになったと理解することもできるでしょう。だとすれば、ヒロインはきわめてヒューマニズムに溢れた強い人物として描かれているようにも見えます。
(c) ヒューマニズムの先にある「革命」の精神
しかし、果たして瑞穂はヒューマニズム溢れる強い人物なのでしょうか。彼女は「革命」をめぐって、こうも語っています。
「革命家は、誰かが痛い思いをしている時、自分も本気で痛いと思える人間でなければならないわ。あなたも、誰かが殴られていたら自分も殴られているのだと思いなさい」[同:1巻144ページ]
「神様は信じていないけど、私は人間を信じるわ」[仙波:2巻157ページ]
前者はホセ・マルティの有名な言葉「誠実な人間であれば、誰もが他の誰かが頬を殴られた痛みを、自分の頬に感じるに違いない」を引用したものです。また、後者は人民あるいは大衆を信頼するか、という多くの革命家が直面した問題にまつわる発言です。一見するとヒューマニズム的な言葉のように思えますが、こうした思想がラディカルに貫かれたとき、すでに古典的なヒューマニズムは内側から破壊されています。
登場人物の動きに即して具体的に見てゆきましょう。第2巻において「人間を信じる」という瑞穂と対比されているのが、主人公が「人間のことを分かっている」と評する彼女の幼馴染のさくらです。瑞穂はラディカルであるがゆえに、悩み、苦しみ、立ち止まりますが、さくらは常に周囲に気を配り誰にでも優しく接します。その意味で、古典的なヒューマニズムはむしろ、さくらの方に当たります。対する瑞穂は、かえって精神的な弱さを抱え込まざるをえません。そして、それこそが重要なのです。
本作のヒロインは、弱さと誠実さとラディカルさを一身に背負ったキャラクターです。そこには、古典的なヒューマニズムが持つ人間中心主義的で現状肯定的な姿は見られません。彼女はどれほど苦しみ、傷ついても前へ、前へ進むことでしょう。だから、彼女は「革命」の精神を持つ「革命家」たりえるのです。私たちは彼女の「高潔さ」に注目すべきなのではないでしょうか。彼女が第2巻の冒頭で引用した「第2次ハバナ宣言」は、このように結ばれています。
Esa proclama es: ¡Patria o Muerte! (われわれの叫びは、「祖国か死か」だ!)
Venceremos. (われわれは勝利する。)
【参考文献】
・仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました1』(講談社ラノベ文庫、2016年3月発売)
・仙波ユウスケ『リア充になれない俺は革命家の同志になりました2』(講談社ラノベ文庫、2016年12月発売)
・杉井光『さよならピアノソナタ』(電撃文庫1515、2007年11月発売)
(2017年7月26日 一部加筆)
リア充になれない俺は革命家の同志になりました1 (講談社ラノベ文庫)
- 作者: 仙波ユウスケ,有坂あこ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/03/02
- メディア: 文庫
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リア充になれない俺は革命家の同志になりました2 (講談社ラノベ文庫)
- 作者: 仙波ユウスケ,有坂あこ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/12/27
- メディア: 文庫
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みんはな10年前のことを覚えているかい? ― 木緒なち『ぼくたちのリメイク』
こんにちは、お久しぶりです。こんな不定期更新のブログでも、はじめて1ヶ月で閲覧者数100を超えると少し驚きです。今年1月に書いた豊田巧『異世界横断鉄道ルート66』の記事を作者さんご本人がFacebookで紹介いただいたのが原因のようです。こんな小難しい文章でも、チェックしていただいているのかと思うと赤面の至りです。
それはそれとして、今回は木緒なち『ぼくたちのリメイク――十年前に戻ってクリエイターになろう!』(MF文庫J、2017年3月発売)を取り上げてみたいと思います。この作品は、タイトルの通り、主人公が10年前にタイムスリップして人生をやり直す話なのですが、2006年という具体的な年を指定し、これに即した話を組み立てている点が注目されます。
MF文庫Jとしては押しの作品らしく、以下のように特設サイトやTVCMまで作って宣伝しています。同じクリエーターものとして、4月からアニメ2期が放映される丸戸史明『冴えない彼女の育てかた』(ファンタジア文庫)のような扱いを目指しているのでしょうか。イラストレーターにはえれっとを起用。帯には、10年前にヒットした彼の同人作品『にょろーんちゅるやさん』が描かれ、「みんはな十年前のことを覚えているかい?」とふき出しがあります。懐かしいですね。
この作品はこの10年間の時代の変化を考えさせれれる作品です。たかが10年と侮るなかれ。今回も、少々お付き合い下さい。
―目次―
1.10年前の日本社会とキャンパスライフ
冒頭でも述べたように、本作は2016年から2006年へとタイムスリップするという、時間を指定したタイムスリップものです。ミステリやサスペンスでは精緻な道具立てとして使われることがあり、例えばジョン・F・ケネディ暗殺を題材にした、スティーブン・キング『11/22/63』が最近では話題になっていますね。同作では、1960年代アメリカをいかに読者の前に再現するかが魅力の一つになっています。
さて、『ぼくたちのリメイク』では、2016年時点で、しがないゲームクリエイターである主人公の橋場恭也が、会社が倒産して失業してしまい失望のなかで目が覚めると10年前の2006年にタイムスリップ。人生をやり直そうと、新たに芸術大学に進学したところ、10年後に活躍するクリエイターの卵たちに出会ってシェアハウス生活をすることに……という設定です。
主人公は1988年生まれで奈良県生駒市出身[木緒:12・24・33ページ]、10年前の2006年に戻ると大学進学のタイミングで、心機一転、大阪府南河内郡にある大中芸術大学に進学します。やたらと具体的です。実は1988年生までの人は、遅生まれでない限り2007年に大学進学をするはずなので、計算が合わないのですが、そこは取りあえずスルー。
さて、大中芸術大学映像学科は、「誰もが知っている国民的アニメの監督の出身校で、超有名マンガ家の半生をもとにして大ヒットしたマンガ『アカイホノオ』の舞台で、世界的ゲームメーカーの陣天堂にも多数のクリエイターを輩出していた」[同:26ページ]というのですが、これは作者自身の出身校でもある大阪芸術大学がモデルです。それぞれ、エヴァの庵野秀明、島本和彦『アオイホノオ』(ここでは大作家芸術大学:おおさっかと読む)、任天堂のことを指すことはお分かりになると思います。
話が進めば、作者の実体験に基づくだろう話が次々と出てきて、ニヤニヤさせられます。個性豊かというより何かがおかしい大学教員、当時大阪に多かった大手コンビニチェーンのドーソン(もちろんローソンのこと)での深夜バイト、奇人変人がうごめいて意味不明な飲み会をやるサークル(美術研究会と忍術研究会)の先輩たち、駅で映像撮影をする際の面倒な諸手続きとトラブルなどなど。
この頃の日本の大学では、就職不安と就活の長期化、仕送りの減少に伴う長時間のバイトをする学生の増加といった経済問題が一方にあり、自由な時間割や欠席・代返、一気飲みへの規制など社会的要因が他方にあるなかで、自由で活発あるいはハチャメチャな昔ながらの学生文化がいよいよ衰退してゆく時期です。大学生にとって、自由なモラトリアムの空間としての大学から、資格と就職のための社会の仕組みとしての大学へと姿が変わってゆく時期に当たります。
しかし、芸術大学のようなちょっと浮世離れした大学は、こうした社会の動きとはやや距離のある自由な雰囲気があったように思います(筆者は芸大出身ではありませんが)。マンガでは、羽海野チカ『ハチミツとクローバー』や東村アキコ『かくかくしかじか』で芸術大学の情景が描かれています。小説だと、森見登美彦の『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』などで描かれる京都大学の誇張された情景も面白いですね。
2006年頃は、右も左もガラケーでしたし、そもそも「ガラケー」という言葉さえありませんでした。学生のコミュニケーション・ツールといえばmixiです。もちろん、Facebookなんて知りません。インターネットはあっても、ケータイでの使い勝手はまだまだ悪く、出先に行く時は電車の時刻をメモして、地図は紙にプリントアウトしたものです。作中でも触れられていますが、ケータイのカメラやデジカメのビデオの性能もまだまだでした。
90年代後半・2000年代生まれの、現在の中高生や大学生の人には、不便な世の中だと思うかもしれませんが、当時は誰も不便だと思っていませんでした。むしろ、ケータイとネットの普及で以前より便利になったと感じていたものです。逆にケータイ利用とネット社会の普及に対して警鐘を発する意見がまだ残っていたくらいです。
2.10年前のライトノベル:一般的動向
さてさて、10年前のライトノベル業界はどのようなものだったのでしょうか。主人公たちが入学した2006年春頃の、新刊ラノベに封入されている折込み広告チラシを覗いてみましょう。
電撃文庫:『電撃の缶詰』の4月の新刊は上遠野浩平「ブギーポップ」シリーズの第14巻『イントレランス オルフェの方舟』、三日月かける『断章のグリムⅠ』、鎌池和馬『とある魔術の禁書目録9』、七月隆文『イリスの虹Ⅱ』、五十嵐雄策『はにかみトライアングル3』、有沢まみず『いぬかみっ!9』などです。往年の名作や今も現役の作家たちが並んでいます。
富士見ファンタジア文庫:『ドラゴンプレス』の4月の新刊は、十月ユウ『戒書封殺記2』、星野亮「ザ・サード」シリーズ短編第6巻『ただ、それだけのこと』、神坂一『スレイヤーズすぺしゃる26』、鏡貴也『伝説の勇者の伝説10』、竹河聖『風の大陸』最終章(第28巻)などです。この頃のファンタジア文庫は、白い表紙の上に、四角に切ったイラストと黒ゴチのタイトルという昔懐かしのオールド・スタイルです。しかし、この前年の2005年6月発売の高瀬ユウヤ『攻撃天使〈ヘブンスレイヤー〉6』から枠を出たイラストが出るようになりました。
富士見ミステリー文庫:同じく『ドラゴンプレス』から、師走トオル『タクティカル・ジャッジメントSS3』、野梨原花南『マルタ・サギーは探偵ですか?2』、かたやま和華『楓の剣!二』などです。当時存在したミステリー文庫は、毎月3~4冊ほど出していました。
その他に、広告として「富士見書房の人気作品が携帯電話で読めるようになります」という宣伝があり、ガラケーで読める今の電子書籍の走りがあったことも判ります。案内されている作品は、賀東招二『フルメタル・パニック』、秋田禎信『魔術師オーフェン』、榊一郎『スクラップド・プリンセス』、水野良『魔法戦士リウイ』、桜庭一樹『GOSICK』、新井輝『ROOM No.1301』、田代裕彦『平井骸惚此中ニ有リ』などが並んでいます。また、ラジオ大阪の番組「富士見ティーンエイジファンクラブ」が4月から始まったという広告もあります。
角川スニーカー文庫:『ザッツすにすに』より、十文字青『薔薇のマリアV』、長谷敏司『円環少女3』など。
MF文庫J:『その名もJ』から、西野かつみ『かのこん3』、桑島由一『神様家族8』、日日日『蟲と眼球とチョコレートパフェ』など。この頃は、まだナンバーが付いていません。
ファミ通文庫:『enterbrain Entertainment News』vol.73 で、田口仙年堂『吉永さん家のガーゴイル10』、野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』など。この頃のファミ通文庫の折込み広告は、エンターブレインで一括でした。この年の10月に『FBN』vol.1が発行されます。
当時何が流行っていたかを調べるのには、『このライトノベルがすごい!』が手っ取り早いです。2006年分を扱っている2007年版を見てみましょう。
作品ランキング:1位 支倉凍砂『狼と香辛料』(電撃文庫)、2位 谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズ、3位 西尾維新「戯言」シリーズ(講談社ノベルス)、4位 橋下紡『半分の月がのぼる空』、5位 時雨沢恵一『キノの旅』(電撃文庫)、6位 竹宮ゆゆこ『トラどら!』、7位 川上稔『終わりのクロニクル』(電撃文庫)、8位 「“文学少女”」シリーズ(ファミ通文庫)、同率9位 渡瀬草一郎『空ノ鐘の響く惑星で』、古橋秀之『ある日、爆弾がおちてきて』
女性キャラクター部門:1位 ホロ(狼と香辛料)、2位 長門有希(涼宮ハルヒシリーズ)、3位 涼宮ハルヒ(同)、4位 天野遠子(“文学少女”シリーズ)、5位 キノ(キノの旅)、6位 逢坂大河(とらドラ!)、7位 秋庭里香(半分の月がのぼる空)、8位 ヴィクトリカ(GOSICK)、9位 シャナ(灼眼のシャナ)、10位 ルイズ(ゼロの使い魔)
男性キャラクター部門:1位 佐山・御言(終わりのクロニクル)、2位 いーちゃん(戯言シリーズ)、3位 零崎人識(同)、4位 平和島静雄(デュラララ!!)、5位 相良宗介(フルメタル・パニック!)、6位 キョン(涼宮ハルヒ)、7位 ガユス・レヴィナ・ソレル(されど罪人は竜と踊る)、8位 折原臨也(デュラララ!!)、9位 上条当麻(とある魔術の禁書目録)、10位 薬屋大助(ムシウタシリーズ)
2006年当時のライトノベルの状況を総括してみると、とにかく電撃文庫の一人勝ち。新た強いヒット作が生まれ、人気作家を次々と輩出しています。一方、古参のファンタジア文庫は長年のヒット作を抱えているもののの、新しいヒット作に恵まれてない模索の時期で、同じく古参のスニーカー文庫も「涼宮ハルヒ」シリーズの爆発的ヒットが目立つのみです。他方で、『神様家族』、「“文学少女”」シリーズなどMF文庫Jやファミ通文庫などの新興レーベルがいよいよ本格的にヒット作を出すようになってきています。
作品の傾向も、現在とかなり異なります。富士見ファンタジア文庫が担ってきた異世界ファンタジーものが退潮を見せ、現代ファンタジーあるいは異能バトルもの、どたばたラブコメ、現代世界ものでは、登場人物の心情を掘り下げたものやミステリ・テイストなどが確認できます。ライトノベルが2000年代に入って多様化して、多くの読者を獲得していった時期に相応しいラインナップと言えるでしょう。
3.10年前のライトノベル:一つの作品の紹介
こうした2006年頃のライトノベルの状況のなかで生れた作品を一つ紹介します。それは、熊谷雅人『ネクラ少女は黒魔法で恋をする』全5巻(MF文庫J、2006~07年)です。本作はあまり有名な作品ではありませんが、第1回MF文庫Jライトノベル新人賞の佳作であり、作者の熊谷雅人は、西野かつみ、日日日、月見草平らと同期に当たります。
『ネクラ少女は黒魔法で恋をする』は、現代ファンタジー・ラブコメ・登場人物の心情の掘り下げという、上に示した2000年代半ばのライトノベルの動向が集約されています。それゆえ、同作はこの時代のライトノベルを考えるうえで示唆的な内容を持っています。また、これが当時の新興レーベルから刊行され、女性を主人公にしている点もたいへん興味深いものです。
『ネクラ少女』の主人公・空口真帆は、他人を遠ざけ一人黒魔法を愛好する、内弁慶な毒舌家。ある日、悪魔の召喚に成功した真帆は、自分をバカにするクラスメートを観返すために「わたしを変えてほしい、可愛くしてほしい」と願う。悪魔はその代償に彼女の恋心を奪うという。すっかり変わった彼女は、演劇部からスカウトされ、そこで一之瀬先輩に出会う。一之瀬に惹かれる真帆だが、彼は亡くなった彼女のことが忘れられないという。新たに出来た友達のおかげで自らの恋心を自覚した真帆は、「本当に変わらなくちゃいけないのは、わたしの心なんだ」と気付き、恋心を取り戻すべく悪魔に立ち向かう――。
以上が、第1巻のおおよそのあらすじです。『ネクラ少女』の導入部分は、主人公の毒舌によるモノローグでテンポよく進み、中盤から孤独な少女が友達と想い人を作って内面を育み、終盤で自らの弱さを克服しようとたたかいます。登場人物の心情の掘り下げが、「黒魔法」という変身願望をテコとして進められ、「黒魔法」に話が回収されてゆく構成は改めて読み直しても面白いものです。
重要なのは、「黒魔法」=変身願望には落とし穴があること。物語の終盤で、真帆の意思が固いと見るや、悪魔は彼女に絶望を与えるべく、それまでの友達と想い人を作って内面を育んだ記憶を彼女から消し去ろうとします。ですが、彼女は絶望しません。例え記憶を失おうとも、再び変わってみせると彼女は覚悟を決めるのです。
2巻以降では、さらに真帆を取り巻く登場人物が増え、ラブコメとしての要素が強まりますが、願望と意思をめぐる内面の掘り下げに「黒魔法」が関わる形でストーリーが展開してゆきます。さらに物語の舞台として演劇部を設定し、主人公たちが作り上げようとするものも明示されています。
『ネクラ少女』を取り上げたもう一つの理由についても触れておきましょう。実はこの作品は、えれっとが初めてライトノベルのイラストを担当した作品なのです。そして、その10年後に『ぼくたちのリメイク』で、同じMF文庫Jで再び読者の前に現れたという訳です。
4.現在の日本社会とライトノベル
ようやく『ぼくたちのリメイク』に話が戻ってきました。改めてこの作品のポイントを整理してみます。この作品では、主人公である橋場恭也の「変わりたい」という願望がタイムスリップという形で手の届くところに転がり込みます。しかし、過去に戻ったからといって、人は本当に変わることが出来るのでしょうか。結局のところ重要なのは、自らの意思であるということに気付きます。
「いや、できる」
「できるんだよ!!!」
「できるんだ。僕を信じて。貫之や、ナナコや、シノアキががんばってくれたこと、絶対に活かしてみせるから」[木緒:248-49ページ]
そうです。この作品は、願望と意思をめぐる登場人物の葛藤を「タイムスリップ」が関わる形でストーリーが展開するのです。恐らく、2巻以降では、この「タイムスリップ」に何らかの落とし穴が設定されることでしょう。
なお、『ネクラ少女』と『ぼくたちのリメイク』の違いの重要な点は、舞台設定がより強固にストーリーと結びついている点です。前者における演劇部に対して、後者における芸術大学でクリエイターを目指すという目的志向性の強さは、青春群像劇として決定的に重要な意味を持ちます。そういう意味では、『ぼくたちのリメイク』は、木緒なちの尊敬する丸戸史明『冴えない彼女の育てかた』(こちらの作品は、クリエイターの自己言及という性格が強く、むしろライトノベルを描くライトノベルものに近い内容を持っています)よりも、岩田洋季『花×華』全8巻(電撃文庫、2010~13年)を想起させます。
他の作品との関係で言えば、大学生活を描くライトノベルは、中高生をターゲットとするライトノベルの性格上、珍しいものです。ヒット作としては、竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』全11巻(電撃文庫、2010~14年)や松智洋『パパの言うことを聞きなさい!』(全18巻+1巻、集英社スーパーダッシュ文庫、2009年12月~16年7月)でしょうか。前者は目的志向性の弱さを自分探しという形で描いた秀作、後者はむしろ「家族もの」の代表作です。(「家族もの」については以前書いた、短編小説賞と「家族」問題 ― 五十嵐雄策『幸せ二世帯同居計画』 を参照してください。)
他方で、『ぼくたちのリメイク』は現在のライトノベルが抱える弱点にも直面しています。そもそも、ライトノベルが想定する中心的な読者層である中高生にとって、果たして10年前とは想起するべき内容をもっているのか、という疑問です。帯でちゅるやさんが「みんなは十年前のことを覚えているかい?」と問いかけるとき、中高生はちゅるやさんのことを知っているのでしょうか。
より直接的な言い方をすれば、『ぼくたちのリメイク』はライトノベルの高齢化した読者層に焦点を当てているのではないか、という印象を受けるのです。確かに、現在の読者層の高齢化を踏まえると、まず20~30代に買ってもらい、その後話題となることでより広い層に買ってもらうというマーケティング戦略はあり得るでしょう。しかし、そのような態度は、果たしてよいのかとも考えてしまいます(高齢化した読者の一人がそんなことを言うのも、正直どうかとは思いますけれども)。本作がどのように成長してゆくかが、この問いへの答えを用意してくれるかもしれません。続刊を心待ちにしています。
【参考文献】
・木緒なち『ぼくたちのリメイク――十年前に戻ってクリエイターになろう!』(MF文庫J、2017年3月発売)
・『このライトノベルがすごい!2007』(宝島社、2006年)
・各レーベル折込み広告
(2017年4月25日 一部修正)
ぼくたちのリメイク 十年前に戻ってクリエイターになろう! (MF文庫J)
- 作者: 木緒なち,えれっと
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/03/25
- メディア: 文庫
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