現代軽文学評論

ライトノベルのもう一つの読み方を考えます。

読み手に挑戦するライトノベル ― 米倉あきら『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい』

 米倉あきら『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい - In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI -』(イラスト・和遙キナ、HJ文庫、2013年3月発売)が一部で話題になっています。私も一読して衝撃を受けました。

 取り敢えず、HJ文庫がどう売りたいのかを見るために、この本の帯(時間が経つと書店が捨ててしまうことがあるので、実は貴重ですよね)を書き起こしてみましょう。

(表)
原題「せんせいは何故女子中学生に○×☆※をぶち込み続けるのか?」で話題沸騰。
文学少女vsあぶないせんせい
第6回HJ文庫大賞奨励賞
(裏)
こんなの絶っ対受賞させねー!〈編集長〉
こんなの受賞させるしかない!〈編集A(現担当)〉
こんなやり取りがあったとか無かったとか……

 こりゃ、問題作として売る気マンマンですね。前島賢氏なら「奇書」と呼ぶのでしょうか。いくつかネットやブログでも言及がありますが、この作品について今回は考えてみたいと思います。

―目次―

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インテリぶる推理少女とハメたいせんせい | HJ文庫公式Webサイト

そもそも、どういう作品か?

 この作品は2011年10月末締め切りの第6回HJ文庫大賞に応募された作品ですが、作者によると元はネット小説として投稿されたものらしいです[米倉 p.333]。原題は『せんせいは何故女子中学生にちんちんをぶちこみ続けるのか?』。既に問題作の臭いがプンプンします。賞の発表は2012年2月27日で同HPの選評には、

HJ文庫はじまって以来最大の問題作と言って良いでしょう。タイトル通りの内容ながら、タイトルから予想される展開とは全く異なっていて、読み手を惹き込みます。完成度の問題もあり奨励賞となりましたが、単純な面白さなら間違いなくトップクラスの評価です。[公式Web]

 とされています。大賞・金賞・銀賞の各作品はこの年の7~8月に発売されていますが、本作はさらに7ヶ月も遅れた2013年3月になって、ようやく発売。「完成度の問題」をクリアするために、どれだけ頑張ったのか気になることろですね。

 

 ここからネタバレですが、あらすじを確認しておきましょう。

 主人公の「せんせい」は女子中学生・比良坂れいから「わるいうわさ」があると追及を受ける。強姦魔であるせんせいは、記憶障害のために強姦の日々をうまく思い出せないが、再構築された記憶からは、次々と強姦を行うたびに比良坂さんに目撃されるも何故か彼女はせんせいを疑わず、強姦の事実も隠蔽される。彼はその原因を、過去に自分と彼女の姉が付き合って、その後死んでしまったことと関係があると考える。しかし、せんせいが比良坂さんを犯そうとしたところを目撃されて彼は島から逃走し、せんせいを独占したい彼女の思いが語られる。真相を確かめに島に戻ったせんせいは、真相に迫る中で独占欲によって比良坂さんに殺される。

 特徴的なのは、強姦魔であるせんせいのギャグを交えたユーモラスな一人称による語りと、「事実はすべて筋が通っている」と信じているミステリ脳の比良坂との掛け合いでしょう。また、海によって隔たれた孤島・南五坂島と、閉鎖的な島社会を舞台とし、その上でミステリー小説に対するメタ発言を行っています。何より大きな特徴は、ミステリー的な作品にもかかわらず、主人公が強姦魔、つまり犯罪者であることでしょう。ミステリーとしての理屈を持ちながらも、読ませる文章で真相を知りたい読者をぐいぐいと引っ張ってゆく作品です。

 

 この作品に対して、インターネット上の感想はおおむね否定的です。好意的なものでされ、「面白いと思うが、おすすめはしない」という類が目立ちます。これについては、犯罪者ゆえにせんせいが読者のネガティブ面を暴露し、これを不愉快に感じてしまう「ライトノベル読者の保守性」を批判する見解もあります[Theoretical SCHWEIN]。いずれにせよ、小説作品として構造的に欠陥があるという指摘は非常に多いように思います。

何がこの作品の魅力なのか――3つのポイント

 では、この作品のライトノベルとしての魅力とは何なのか、構造的な面を考えてゆこうと思います。ここで、私は3つのポイントを上げます。

 第一に、キャラクター小説として成り立っている作品であることです。大塚英志氏はライトノベルのことを「キャラクター小説」と表現し、作者=語り手の「私」中心の小説でなく、アニメやコミックを原理とするキャラクター中心の小説であると定義しました[大塚 pp.24-25]。言うまでもなく、本作のキャラクターであるせんせいと比良坂さんは、非常にキャラが立っていて、その魅力を否定することは出来ないでしょう。

 

 第二に、エンターテイメントとしてミステリー小説に挑戦している作品であることです。本作にはミステリー小説に多く触れられていて、ことごとくそれを茶化しています。遂にはこんなことまで比良坂さんに言わせてしまいます。

文章が永遠に色褪せないわけがなく、古い小説が現代の子供に合うわけがありません。時間を積み重ねているのは大人だけであって、子供はそんなことを知らない。わたしはつい最近まで名探偵が犯人であることが斬新だと思っていましたし、また、つい最近まで名探偵を犯人にすると探偵小説のルールに違反すると思っていました。ゆえにわたしは思うのですよ。子供は過去なんて知ったことではないし、知ったとしても少し齧ったぐらいなのだと。それは読書量がどうしても少なくなる子供だからこそです。時間の問題上、子供は読書家ではない。これは仕方がないことです。[米倉 pp.90-91]

 ミステリー的仕掛けをこれでもか、とバカにする。あくまでも小ネタだと思うべきではないでしょう。むしろ本作の主題に関わる問題です。再び大塚氏を引きますが、小ネタを含めた世界観とテーマの関係について「世界観の細部に神は宿る」ものだと表現しました[大塚 p.236]。なるほど本作では、(a) 描写が主人公による一人称形式である(叙述トリックを生む主観的叙述)→叙述トリック批判、(b) 孤島を作品の舞台とする(密室殺人や吹雪の山小屋などミステリーに定番の物理的隔絶)→泳いで本土まで渡ってしまう、(c) 人々のつながりが深い田舎を背景とする(『八つ墓村』などこれまた定番の閉鎖的共同体)→強い規制がまったく働かない という風に、ミステリーにうとい私でも気付くような仕掛けと、それを繰り返しバカにして読者を楽しませている。それは読み手を楽しませるためであると評価します。

 

 第三に、規範性の上に立って読み手に挑戦していることです。これは第二と関係することですが、この物語は、犯罪者であるせんせいを追及する人たちと共にせんせいが強姦・島社会・比良坂さんの過去と思いを明らかにしてゆくものです。せんせいは自らの犯罪と過去を忘れており、自らの探偵をしています。また比良坂さんも姉の殺人に関わる幼少時、せんせいを騙して強姦未遂をさせる作品中盤、せんせいを殺そうとする作品終盤の3回に渡り、悪事の疑いや犯罪そのものを行っています。要は犯人と探偵が入れ子構造になっているのです。

 ゆえに読者は真相を知りたいと読み進めることになります。しかし、解決は裏切られます。主人公であるせんせいは犯人/探偵でありながら、最後まで真相を知ることは出来ません。彼が果たしたのは、比良坂さんが不可侵なヒロイン=犯す/侵すことのできない絶対的他者であったという事実に直面して死ぬことだけ。それは、読み手にとって二重の負担――犯罪者ゆえに主人公と同一化できない、真相を知ることが出来ない――を与えます。

 それでも、(この作品は「強姦」を扱っているけれども)作者の問いは、作り手の立場を強弁するのではなく、作品の中できちんとした手続きと論理を踏んだ規範的なものです。ここで二人のサブキャラクターの存在がカギとなります。一人は先生に強姦された沢渡琴子で、もう一人は沢渡さんの彼氏の朝倉聖一です。二人とも、せんせいと比良坂さんの関係や環境を相対化しながら繰り返し追及します。実は、読み手に最も近く、読み手と作品をつなげる登場人物がこの二人だと言えるのです。彼らがいるからこそ、この挑戦が成り立っていることを指摘したいと思います。

 

 以上3点から、『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい』がライトノベルとして魅力のある構造を持っていると私は主張したいと思います。確かにこの魅力は、オーソドックスなものとは決して言えないでしょう。しかし、ライトノベルでなかれば出版されなかったものでもあります。

 くどくど作品論を述べてしまいましたが、いかがだったでしょうか。

 

 この作品は、話題を呼んだだけあって多くのレビューがされています。特に恋愛の観点から比良坂さんの行動を整理した「真・立ち読み師たちの街」http://d.hatena.ne.jp/kkkbest/20130323 は非常に面白いものです。ミステリーの観点からは「魔王14歳の幸福な電波」 http://d.hatena.ne.jp/Erlkonig/20130323/1364034241 が参考になります。

 ちなみに、この作品は『恋人にしようと生徒会長そっくりの女の子を錬成してみたら、オレが下僕になっていました』を超えて、最も長いタイトルを持つライトノベルらしいですよ? [この世の全てはこともなし] まあ、身も蓋もないことを言えば、話題になった時点でこの作品は成功しているのですけれどね。

 

【参考文献】

・米倉あきら『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい』、HJ文庫439、2013年3月
大塚英志『キャラクター小説の作り方』、角川文庫14279、2006(2003)年
HJ文庫公式Webサイト :小説賞(第6回HJ文庫大賞発表) http://hobbyjapan.co.jp/hjbunko/novelawards/award06.html
・ブログ「Theoretical SCHWEIN」、2013年3月8日 http://hkmaro.sakura.ne.jp/blog/in-terrible-silly-show-jawed-at-hermitlike-sensei/
・ブログ「この世の全てはこともなし」、2013年3月26日 http://blog.livedoor.jp/gurgur717/archives/51415083.html

富士見書房と築地俊彦

 ライトノベルの老舗レーベルといったら、富士見書房富士見ファンタジア文庫ですが、レーベルとしての雰囲気は時代によって異なります。90年代は『スレイヤーズ!』や『魔法戦士リウイ』に代表されるファンタジー路線、2000年代は『鋼殻のレギオス』や『ご愁傷さま二ノ宮くん』のラブコメ路線、そして最近の良く分からない(?)路線。

 で、この2000年代のラブコメ+ファンタジー路線を牽引した代表者が築地俊彦氏です。『まぶらほ』の話はいずれ色々と論じたいのですが、今回はファンタジア文庫の路線変化との関係で見てゆきます。

―目次―

まぶらほ』の影響

 『まぶらほ』(イラスト・駒都え~じ)は現在でも評価の高い作品ですが、何が画期的だったかというと、1.女の子がいっぱいのハーレム・ラブコメ 2.現代を舞台にした学園もの 3.これらにファンタジー要素を加味した という点じゃないかと、今のところ考えます。

 『まぶらほ』は2000年に『月刊ゴラゴンマガジン』誌で行なわれた第3回龍皇杯という読者人気投票で見事トップを飾った作品で、2000年11月号から連載が始まります。以来、ドラマガ連載の短編、書き下ろしの長編、外伝(メイドの巻)など現在計31巻が発行。すごい人気ですね。私もドキドキしながら読んでいました。

 この頃のドラマガはメディアミックスの成功などで20万部で、絶好調だった訳で、龍皇杯もこうした盛り上がりの中で開催されていたのです。(今は亡き)富士見ミステリー文庫の創刊は2000年11月で、『まぶらほ』とほぼ同じ時期ですね。こうした多展開から人気を得ていったのが築地俊彦氏でした。

 ドラマガ2004年1月号のラインナップを見ると、

上田志岐「イレギュラーズ・パラダイス」、賀東招二フルメタル・パニック!」、深見真「パズルアウト」、毬原洋平「生キズだらけの戦士たち」、水野良魔法戦士リウイ」第3話、清水文化「気象精霊ぷらくてぃか」第22話、築地俊彦まぶらほ」第37話、瀧川武司「EME」、沖方丁「CHAOS LEGION」、鏡貴也「伝説の勇者の伝説」、神坂一スレイヤーズ!」、秋田禎信「エンジェル・ハウリング」第5部第6話、榊一郎「スクラップドプリンセス」[雑誌一覧_月刊ドラゴンマガジン

であり、築地氏よりも先輩か同じくらいにデビューした面々にもかかわらず、ラブコメ路線が進んでいるのが分かります。これは築地氏だけでなく、ファンタジア文庫全体の傾向として理解して良いでしょう。

 また、富士見ミステリー文庫の「L・O・V・E!」路線は2003年頃ですが、2006年12月の『ネコのおと リレーノベル・ラブバージョン』では執筆陣の中で唯一、築地氏だけがミステリー文庫関係者ではありません。髙木幸治編集長の影響力を考えると、築地氏がやはり富士見書房全体のラブコメ路線の象徴であると私は評価してみました。

富士見書房の変化

 創刊20周年を機に2008年5月号から、隔月刊・B5判とドラマガは大きな変化を遂げました。編集方針が大きく変わったことは誰の目にも明らかで、連載から読み切りへ、マンガ連載・ホビー系の縮小などがあげられます。この変化をモロに受けた作品は多く、『まぶらほ』を含めた人気作の連載中止が相次ぎました。短編連載を主軸とする『まぶらほ』はこれで成り立たなくなった訳(単行本化がどうしても遅くなる)で、長期連載に伴う人気の低下も背景としてありそうです。

 いずれにせよ、代わって築地氏が打ち出したのが、「略して二のゐ!」(『変・ざ・くらする~む』に改題、イラスト・異色、2011年4月発売)ですが、ゆるくて変な女の子が次々と出てくるという、日常系4コマの小説版といった感じの作品。築地氏の文章は相変わらず面白いのだけど、話のヤマがなくて、「だったらマンガ読むよ!」って感じの作品になってしましました。中途半端にドラマガに連載したのも、良くなかったのではとい思います。

 2011年から富士見書房は「王道宣言!!」を打ち出しています。とはいえ、何らかの方向性を見出したという印象は残念ながら受けませんね。築地氏の近著でいえば、『司令官レオンの覇道』(イラスト・風瑛なづき、2012年10月発売)、『司令官レオンの野望』(2013年2月発売)は学園ラブコメでウォーゲームをやる作品。2巻完結で、キャラクターも魅力的で動きもあるのですが、「動くならアニメで見たいね!」って感じです。

 

 「二のゐ」も「レオン」も、娯楽性を非常に意識した作りになっているのですが、前者はマンガ的、後者はアニメ的な娯楽性が強くなってしまい、かえってライトノベルとしての売りが何なのか、よく分かりません。築地氏も迷っているのでは、という感じを受けました。『レオン』2巻の「あとがき」では、キャラクター小説と現実の歴史の関係についてこう述べています。

ライトノベルというかキャラクター小説では、個人の活躍に焦点が置かれます。これは事件のスケールがどれだけ大きくなっても同じです。地球をひっくり返すような陰謀であろうと、結末は個人がなんとかしてしまいます。娯楽小説ですから当たり前です。[築地 p.249]

これまでも築地氏は「あとがき」などでライトノベルを書くとは何なのかという問題に何度も触れてきました。かなり意識的な作家なのは間違いなく、それだけに迷いも深いのではないかと邪推してみました。(余計なお世話?)

 富士見書房も、MF文庫Jガガガ文庫の台頭に対応できている感じではありません。「このライトノベルがすごい!2013」では、19位『生徒会の一存』シリーズ、35位『冴えない彼女の育てかた』、40位『デート・ア・ライブ』、48位『東京レイヴンズ』、56位『ハイスクールD×D』と不振は明らか。アニメ・ゲームの消費テンポが速くなる昨今、アナログで長期的な媒体である文庫/小説が何を打ち出すのかは重要な問題でしょう。看板作家の迷走は富士見書房の問題を反映しているように思いますが、どうでしょうか。

 

【参考文献】

築地俊彦『司令官レオンの野望』、富士見ファンタジア文庫1994、2013年2月
・雑誌一覧_月刊ドラゴンマガジン http://homepage2.nifty.com/te2/m/ml.htm#gdm

Changing Times, Changing Publishing

 初めまして、Bun Sekidateです。

 ライトノベルを中心にアニメ・マンガなどを論じるブログを立ち上げるに当たり、ライトノベルの出発点を考えてみようと思います。

 とはいえ、ライトノベルの起源をめぐる説は色々ある訳で、例えば、ソノラマ文庫創刊の1975年、新井素子氷室冴子が登場した1977年、高千穂遙「ダーディペア」は1980年、現在のレーベルを重視するならスニーカー文庫ファンタジア文庫はともに1988年……。このラノ2005, pp.142-145]

 だいたい「起源」なんてのは、「クラシック音楽の始まりは?」とか「日本人は何処から来たのか?」みたいに、なかなか決着がつかないもの。こういう問題を考えるのには、ライトノベルの定義をはっきりさせなきゃいけない。

 では、ライトノベルの定義はいかに? 読みやすく軽い文体、中高生向け、アニメ調のイラスト、レーベルなどなど、これまた難しい問題です。そもそも、ライトノベルなんてジャンルって本当にあるのかよ、って思いますよね。枠組みとして、「ライトノベル」という問いは果たして適当なのか、と。

―目次―

電撃文庫創刊に際して」を題材に

 じゃあ、作り手は何と言っているか。興味深い題材があります。とにかく紹介してみましょう。

 

   電撃文庫創刊に際して

 文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで“小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入りやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の想い出として、語りついできたのである。
 その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。
 文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても小さくなることはないだろう。
 「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
 その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。
 しかし、〈Changing Times, Changing Publishing〉時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。
   1993年6月10日 角川歴彦

 

 非常に印象に残る文章ですね。角川歴彦氏は、兄春樹氏の経営する角川書店を飛び出してメディア・ワークスを立ち上げて、ライトノベル・ゲームなどの分野で「電撃」ブランドを広めてゆきます。その経緯などは、ここでは置いておきましょう。

 ここで、宣言されていることは明確です。つまり、読者の多様化のなかで特に「次なる文化の担い手の若者たち」を主なターゲットとして、「既成の枠をこえる新鮮で強烈な」印象を与える文庫を作るということです。これは、現代のライトノベルを考える上で、大事な出発点ではないでしょうか。

このブログ「現代軽文学評論」の基本方針

 では、具体的に現代のライトノベルをどう考えてゆけばよいのか。このブログを始めるに当たり、私なりに3点に整理してみました。

 1.社会・文化の変化に即して分析する。

 2.出版そのものの変化を捉えるように分析する。

 3.ライトノベルの可能性を積極的に評価する。

 第1は〈Changing Times〉に対応します。ライトノベルは現代の社会や文化から独立したものではありません。両者の関係を分析してみる必要があるはずです。第2は〈Changing Publishing〉に対応するものです。何が変化したかを分析することは、ライトノベルにとって何が重要かを問うことに繋がるはずです。第3は、多くの方がライトノベルの感想をネットで語る中で、若者との関係を捉えながら、よりリベラルに文章を解釈してみようと思うのです。

 こんな方針の当ブログですが、よろしくご意見・ご感想をお願いします。

 

【参考文献】

・「このミステリーがすごい!」編集部編『このライトノベルがすごい!2005』、宝島社、2004年12月

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